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面河村誌

二 北番村の分郷

 さきにあげた「慶安元年伊予国知行高郷村数帳」は三代将軍家光の晩年に当たる慶安元年(一六四八)に作られた幕府の公簿で、ここに記された村高は、慶長年間に浅野長政が行ったいわゆる「太閤検地」の石高を示すものである。
 これによると、我が村は次のように記されている。
   一高九百八合   浮穴郡北番村   林山有 野山有 
       田方 百九拾四石九斗三升   
     内
       畠方 七百拾三石七升
 この検地帳に示す石高は、畠作の粟・大豆・とうもろこしなどはすべて米に換算して書き上げてあるので、畠方が田方に対し四倍近いのは耕地のほとんどが山畑であることを示している。
 幕府公簿はこれから五〇年後の元禄十三年(一七〇〇)の「領分附伊予国村浦記」というものがあるが、これには次のように記してある。
   一高九百八石  松平隠岐守知行  浮穴郡
                       北番村
さきの「慶安元年伊予国知行高郷村数帳」と比べて石高も、村名も変わりはない。これに続く天保五年(一八三四)の「天保郷帳」には次のように記す。
   一高九百二十七石二升七合     浮穴郡
                       北番村
 村高に一九石余の増加は見られるが、村名はこの幕末期に至っても北番村である。しかし、これは幕府公簿の上の記載であって、現地では早くから杣野村・大味川村・直瀬村の三村に分郷していたことが「久万山手鑑」などによって知られる。
 では三村分郷はいつ行われたであろうか。久万町大字上畑野川名智禾之所蔵の「名智本久万山手鑑」に、次のような注目すべき記事がある。
       直瀬村庄屋
   直瀬村、杣野村、大味川村右三ヶ村御高九百八石一村ニ而、北坂
   村と申、庄屋次左衛門と申者相勤候所、次左衛門病死仕候以後三
   ヶ村ニ御分ケ被ニ仰付一、直瀬村庄屋同村惣右衛門へ被ニ仰付一、
   慶長拾弐年より寛政十四年丑年占三拾壱年相勤、隠居仕候
 以前は直瀬村・杣野村・大味川村は北番村(文中では北坂村とある)という一村で村高は九〇八石、庄屋次左衛門(別の本では次右衛門ともある)という者が勤めていたが、彼が死んだので藩命により慶長十二年(一六〇七)から三村に分け、直瀬村は惣右衛門という者が庄屋となったというのである。
 つまり、杣野村・大味川村という村が始まったのは慶長十二年(一六〇七)、昭和五十五年から三七四年前のことでそれ以前は直瀬村を含めた北番村であった。
 なお村高については「久万山手鑑」で見ると、
   杣野村  二百五十二石二斗二升
   大味川村  百五十一石三斗四升
とあり、これに直瀬村五〇四石四斗四升を加えると計九〇八石となり、公簿の北番村村高に一致する。
 「久万山手鑑」の久万山代官由来記によると、郷筒の任務を次のように述べている。
   大野直昌殿番城の区分は、口坂七か村は大川村に旗頭を置き下坂七か村は久主村に旗頭を置き、北坂六か村は東川村に旗頭を置き、其他番城を十二か村に置き国境領分取締役を被仰付居り候処弘治年間(一五五五~五八)土州国境の百姓大挙して領分に侵入し横暴して土地百姓をおびやかしたるに付、番城旗頭は年行司郷筒を才許して成敗役を被仰付候領分境目東川水押に御関所、御改役所を置き人馬の通行を検分する所として御禁制を被置申候。
 以上にみられるように郷筒は、治安を維持する警察の役をつかさどるものと、解釈してよかろう。
 郷筒と関係のある松山藩下各郡の鉄砲数は次のごとくで、浮穴郡山分(久万山)が最も多く所持していたことは、注目すべきである。
  一 千二百四十二挺                         
    内 訳                              
     四十八挺ー和気郡                     
     六十九〃ー温泉郡                       
       九〃ー伊予郡                     
    百三十七〃ー久米郡                   
     八十二〃ー浮穴郡里分                    
   六百四十八〃ー浮穴郡山分、久万山
      十五〃ー野間郡
     七十三〃ー風早郡
     九十七〃ー周布郡
       四〃ー越智郡
      十六〃ー風早郡(嶋分)
     二十七〃ー越智郡(嶋分)
      十七〃ー桑村郡
 大味川村郷筒として最初に任命されたのは、寛文十二年(一六七二)半兵衛なる者が二人扶持で役儀被仰付とある。
 杣野村郷筒は、延宝元年(一六七三)武兵衛なる者が役儀被仰付っている。
 大味川村庄屋は、北番村時代直瀬村の次右衛門が就任している。
 杣野村庄屋は、明暦二年(一六五六)直瀬村庄屋惣左衛門の倅、孫兵衛が就任している。
 杣野村・大味川村の庄屋跡は今も歴然と残っている。
 杣野村は直瀬村と地的・人的にもかかわりが深く、初代庄屋は直瀬村庄屋惣左衛門の倅、孫兵衛がその役に就いている。庄屋制度以前においても行政にもその支配を受け、経済上の交流も盛んであったと想像できる。交通についても、上直瀬から井内越で城下町松山とのつながりがあり、杣野村庄屋から松山札ノ辻まで、一〇里二五町一間と記されている。杣野村は直瀬村の浄福寺の檀家になっていた。
 本村にある庄屋跡、杣野第一耕地一六二番地六一、谷川のほとり、苔むした石垣、田圃に囲まれた屋敷に今も残る茅葺の一軒家、人の住んでいないのが一入哀れにさえ思われる。
 歴史が秘められているこの環境と建物は、永久に残したいものである。
 大味川庄屋跡は、本組大味川第三番耕地一六五番地第一・第二・城山を背景に、前は一面の田畑その向こう、面河川の川岸に、氏神様の木立、往時そのままの石垣、庄屋屋敷らしい構えであるが、残念ながら庄屋時代の家屋は、残っていない。
 予土国境の番城若山城は、昼野にあって大味川六人衆の先達ともいうべき中川善之助は、昼野に居宅を定めながら何が故に本組に庄屋の位置を定めたか。
 若山城は、大除城時代、又はその以前から、土州の侵略に備えた番城であった。戦国時代から、豊臣・徳川時代へと世が太平になるにつれて大味川谷は、その川下の豊かな集落が大味川村の中心となってくる。そこは川下の経済・交通の要所、つまり七鳥村・仕出村に近く、また久万代官所などの往来の便もよくて発達したと考えられる。
 歴史は、繰り返すという。今、この川沿いを県道西條久万線が延々と走る。この村の大動脈である。いや、中東予を結ぶ四国山脈横断のハイウエイかも知れぬ。
 杣野村・大味川村の庄屋屋敷跡。何気なくながめてはいるが、我々の祖先は、ここを中心として、行政はもちろんのこと、物心両面のよりどころとして生活をつづけてきた歴史的遺跡である。