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面河村誌

三 木地屋集団

 木地師、又は木地屋というのは「ろくろ」を使って、けやき・とちなどの材から椀や盆などを作る工人のことで、日本で最も古い手工業の一つである。
 木地屋の家系には小椋姓を名のる者が多い。近江国小椋郷(現滋賀県神崎郡永源寺町)が全国木地師発祥の地といわれ、貞観元年(八五九)小椋郷に入られた文徳天皇第一皇子惟喬親王がろくろの業を教え、随従の藤原実秀に小椋太政大臣と名のらせたという古い伝えに基づいており、木地師は小椋実秀及び随従の人々及び小椋郷の住民の子孫であるというのである。
 彼らは右の理由から「御綸旨」と称するものを持ち、全国の山々は入山勝手たるべしといわれ、その八分目以上、霞がかりと呼ばれる部分は自由伐採区域とされていたので、とちやけやきの良材を求めて山から山へと集団的にわたり歩いて作業を続けてきたが、明治初年の山林所有権の確定で彼らの山渉りは終わり、最終の地に定住した者が多い。
 我が面河村でも笠方にかつて三〇戸の小椋姓があり、江戸時代の中期ごろ入山したものと思われる。村に残る記録に、
   中御門天皇享保元年(一七一六)頃より大字大味川へろくろ師入山し、続いて大字杣野へ入り盆筒類を作り出し、順次盛んになれり、今なほ梅ヶ市には数人の木地細工師あり、明治維新前まで到る所の官山に入り、自由に樹木を伐り細工をなし需要に供したるものなり、これらの木地師は小椋家にしてその由来を尋ぬれば文徳天皇の皇子惟喬親王化俗したまひ、近江国愛智郡筒井邑の奥山に入り給ひ、畏くも木地細工をなし給ふ、その後裔及び当時侍従の者の専業する所となり、遂に諸国に巡業散在し現今に至れりといふ
とある。
 また笠方出身の小椋克寛(現松山市千舟町)が所蔵する「年代鏡」は木地師吉助の手控えであるが、そのはじめに、
   抑木地職の謂を尋ぬれば、江州愛智郡に於て惟喬親王作らせ給ひける、是れ大山草に謂、夫れより木地師一類諸国に山入仕り、年月を連しもの也
   一 我先祖は江州を出、京都に登、夫れより大和美作に移り、夫より四国に渡と聞、代年数知らず、
   一 美作より伊予松山領杣野山樅ノ木移る   九左衛門子
                            六右衛門
                         九左衛門墓有
     同土泥山移
 と、江州を出て伊予の杣野の山々に入った様子を記している。
 次に掲げるのは笠方梅ヶ市小椋アヤ子所蔵の、いわゆる「御綸旨」である。
     近江国筒井職頭之事
   諸国轆轤師杓子師塗物師引物師等其職相勤之族、末代無相違可進退旨、定訖、故以為器質基本、兼亦諸役可免許、全公役可相勤之由 依
   天気執達如件
     元亀三年十月十一日     左大弁 在判
         公文所
 この文書には「近江国愛知郡筒井公文所小椋太政大臣実秀印」という菱形の朱印が押してある。正親町天皇綸旨といわれるもので、筒井公文所あてに、諸国ろくろ師(木地師のこと)の職頭として諸役免許の旨、勅許となったことを示すもので、筒井公文書から複製して諸国の木地師仲間に配布されたものの一つである。
 同じく小椋アヤ子氏所蔵のものに、
  従当畑諸商売之事
  於惣国中如有来不可有別儀、若違乱之族在之者、可注進可申付候也
  仍如件
   天正十五年
     十一月十五日    増田右衛門 在判
    近江国
     筒井公文所
 これにも公文所の菱形の朱印が同様に押してある。豊臣秀吉の木地師商売の免許状で、五奉行の一人増田長盛から出されたものの写しといわれ、木地屋と呼ばれる家に多く所蔵されるものの一つである。こうした前代の免許状というものが、古格を重んずる江戸幕府では効力を持ったものであった。
 明治初年当村の小椋家は、約二〇戸、そのうち一〇戸ぐらいは、本来の木地師として、相当盛んであったようである。木地師であれ、農業への転業者であれ、彼らは「きじや」と呼ばれ、素封家として名をなした者が多く、また小椋和太郎・小椋胤一らのように村長として、また助役・村会議員など村の指導者として活躍している人も多い。
 木地材料は、全国いずれの山林でも、八合目以上、つまり「霞がかり」と呼ばれる部分は、自由に伐採ができるという、入山権が許可されていて、好む材料をぜいたくに使った。欅・栃・樵・ミズナなどの、細工しやすい部分だけを、選択して使用した。材料の良し、悪しを見分ける技術は、木地師独特のもので、立木に斧を入れて、たやすく縦に裂けやすい、柾目の部分を良質とした。これがいわゆる「ヨコキジ(横木地)」である。これに対して「タテキジ(縦木地)」がある。この方ができ上がりの木目が美くしく出るが、「ヨコキジ」をほんとうの木地屋というのだそうである。
 明治維新以降、木地材料の立木の伐採はいもおう届け出てから入山するようになり、個人又は仲間で共同購入した。
 木地の工程は、材料の小割つまり「アラグリ」、次に「マサカリ」で外形を整え乾燥した。乾燥の方法は、自然乾燥と囲炉裡の上に柵を設けて、乾かす方法をとった。しかしながら、原木は、切り倒してから五年・一〇年と放置しておき、「ヒビ」の生じないような材料を使うのが、最良であるという。
 木地師の「カンナ」は「ノミ」式のもの、これは自らの手で作る。それで作業場には、鍛冶場も設けてあった。
 木地師の道具は「カンナ」である。
  外道具 ヒビラ・マルガンナ
  内道具 シャカ・ウチシャカ・エグリ・ダラツケ
  「ロクロ」を使う時、カンナを付ける腕木を支える「ウマ」がある。
 木地細工には、椀・盆・拘子などがある。しかし、陶器の出回るのに押され、一般の需要が減少し、また素材の入手が困難になり、大正時代を最後に当村には、木地師は一人もいなくなった。
 越智郡桜井は、漆器の産地、その木地請負をひきうけ、大阪の木地問屋からも、注文を受けていた。
 温泉郡川内町に「問屋」という地名が今も残っている。黒森街道の開通以前、割石峠を越えて松山へ出る貨物の中継地、木地細工はもちろん木炭・木材などを駄馬で運送した時代の問屋跡・交通・交易の要所であった。
 木地屋は、その仲間だけで縁組みし、一般の人々との婚姻はしなかった。特殊の技術を持つ、職人の集団である意識が、あるいは、その祖先に対する優越感があったのか、その故に、百姓仕事は、ケガレルといい、農民にいわせれば木地屋を「キシアケ」といったという。
 近江の木地師の総本山から出ている「略縁起」によると正月三日・四月九日・五月三日・六月十五日・九月七日・十一月九日(すべて旧暦)の七度の神事は、木地師のお祭りとして「行うこと怠慢無し」と、記されている。
 このほかに、十一月八日は「フイゴ祭」、御論旨祭ともいわれ、近隣相寄り盛大に酒宴を開き、先祖をしのび一族の繁栄を祈ったと伝えられている。
 木地師は、入山当時、あるいは異民族扱いをされたかも知れぬ。しかし木地師本来の仕事もしだいになくなり、主として農業に転じ、この地を永住の地として、生業を営むにつれて、部落協同体の一員として、しだいに同化し、生活も習慣も土地の住民となんら異なるところがなくなった。
 昭和二十年終戦後から数年、戦後の木炭ブームは、笠方部落はもちろん、木地屋を捨てた人々にとっても、最も活気のあった一時期ではあるまいか。それから、面河ダム建設のための水没、高度経済成長期の離村、残念ながら、今は過疎地である。かつての木地屋小椋家も、今残るのはわずかに九戸、木地師は、歴史の彼方に遠ざかったとはいうものの、由緒ある特殊な職業集団の入山と移動は、村の記録にとどめる必要があろう。