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面河村誌

二 久万山騒動

 明治四年(一八七一)七月、廃藩置県のため、藩知事罷免の通達が太政官から、松山藩に知らされたのは、七月二十四日で、同年九月までに、江戸表へ参上せよとのことであった。
 八月十四日、松山藩知事久松定昭は、旧家臣たちの離別のあいさつを受ける「御目見」を、同二十六日、二十七日の両日行うと布告したが、久万山農民は蜂起し、久万山騒動(久米騒動)となった。
 その頭取は、浮穴郡久万山日野浦村の貧農、山ノ内才十である。
 次の記録を参照されたい。
     松山藩記 久万山領民騒動
   明治四年八月、浮穴郡久万山農民暴動ニ及ベリ初メ各郡神仏ノ混淆ヲ正シ淫祀ヲ除クノ命ヲ布フヨリ領民大ニ厭忌シ、着手セザル者数有則村吏ニ命ジ該山ノ堂宇一、ニヲ焚毀セシム於是領民不良ノ心ヲ生ゼリ遇々藩知事免官帰京ノ公布アルニ合シ仍チ知事再任ノ歎願ヲ旨トシ同郡七鳥村外ニ、三村ヲ煽助シ各鳥銃竹槍携へ
   明治四年八月十五日久万町ニ屯集シ諸村風ヲ聞テ応ズル者陸続蜂起ス県庁速ニ吏ヲ遣シ百方之ヲ諭スト雖聴カズ却テ村吏二抗シ掲示場ヲ毀チ或ハ出張官吏ノ致タヲ拒ム
   明治四年八月十七日其暴威益々甚シ旧知事手書ヲ齎ラシ家令某ヲシテ諭鎮セシム猶之ヲ聴カズ終ニ浮穴久米両郡ニ憑凌ス
   明治四年八月十八日少属重松約(当時久万山在勤)家令其等其屯集ノ所ニ致リ再ビ懇諭ス此際重松約兇徒ノ為メ傷ケラル家令某亦説諭ノ道ヲ得ズシテ去ル同夜久米郡鷹子村ニ転集ス久米浮穴両郡之二応シ各村ヲ煽動シ各村里正組頭ノ家ニ闖入之家屋ヲ毀チ牒簿ヲ焼キ甚シキハ之ヲ放火スルニ至ル其乱暴猖獗言ヘカラス
   明治四年八月十六日知事温泉郡桑原村ニ至リ巨魁ヲ呼テ之ヲ諭シ勢煌ヲ欽ムト雖モ他ノ凶徒等兇器ヲ携へ各村ニ横行シ同日午后久米郡官舎(久万、浮穴両郡ヲ管治シ事務ヲ扱フ)ニ火ス是二於テ官終説諭ヲ以テ鎮定スヘカラスヲ知リ
   明治四年八月二十日、兵ヲ出シテ鷹子村ニ迎へ撃ツ兇徒傷ク者数名四方二逃散ス尋テ巨魁山ノ内等数名ヲ縛シ全ク鎮定セリ
     御仕置伺書二依ル者
  山ノ内才十外六名(才十は九月二十九日入牢とある)
 山ノ内才十は当時二十五歳、独身小間物(化粧品、針、糸など)の行商人、当時の行商人は、他村落と話の伝承者、つまり情報機関で、大味川村藤左衛門、勝次郎、伊之助など方へ立ち寄り、又は滞在している。
 同年七月下旬、山ノ内才十を中心に、大味川村藤左衛門・仕出村組頭武八郎・沢渡村弁太、七鳥村久之衛門・長瀬組頭初三郎・竹谷組頭利蔵、清右衛門・大味川村勝次郎等と連絡をとり、糾合を図った。
 同年八月十五日、七鳥村長瀬に、蓑・笠・鉄砲・竹槍・食料などを持って、農民を集め、久万町法然寺に屯集している。
 さらに、畑野川村・入野村・久万町村・明神村の農民も加わり、一揆は、雪だるま式に勢力を増した。
 同月十七日、久谷村井手口に到着した。さらに久万山の柳井川村・日野浦村・西谷村・久主村などの増援部隊の到着に加えて、久米郡の農民も参加、総勢二千余人の一揆となり、松山城下町まで行軍しようと、気勢を上げた。
 同年八月十四日、愛媛県はついに軍隊の出動を要請し、ようやくこの騒動を鎮定した。
 これまでの農民は封建的年貢、差別など、数々の圧迫に苦しめられた。こうした機構を分解、改革させ、新しい中央集権の官僚政治に組み替えようとする、明治新政は歓迎すべきことではあるが、新権力に屈従しない自立の意識の表れがこの騒動の一つの動機ともいえる。
 ともあれ、久万山騒動は、明治新政の夜明けに久万山民衆の大規模な闘争であったことに間違いなかろう。