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面河村誌

四 八木胤愛と重見盛蔵

 明治維新は、明かに政治革命であるとともに、広汎な社会革命であった。封建的身分制度の廃止と、私有権の立法的確認であった。
 明治五年二月、寛永年間以来の、土地永代売買禁止制度が解かれ、「自今四民共売買致シ所持候儀差許候事」になり、土地の私有権と、その売買の自由は、完全に法律的確認を得るに至った。
 日本の農業は、封建社会から踏襲された小生産様式に属しており、したがってそれは、主として利潤のためでなく、生活のための農業として経営されていた。
 杣川村の農業も、典型的なそれであった。そして未開発の広大なる杣川の山村は、明治新政のもろもろの経済・社会的改革につれて、外部の者の注目することになったのも事実である。
 まず、行商人の出入、そして、新天地を求める松山近郊の人々の杣川への魅力であった。
 明治二十三年ごろ、温泉郡南吉井村牛渕より八木胤愛・重見盛蔵が、相次いで黒森峠を越えて入山した。
 生活のための農業は、その生産物に対して経済的な価値を産み出すこともできず、生活用品の流通と消費生活の向上に伴い、農民の欲望もしだいに高まり、それを充足させるため貨幣を必要とした。
   地租が金納になった為たとえ地租を納入する余剰価格の実現が不可能になろうとも、寸地を失い無一文となるまでは、納税義務を免れることは出来なくなった。土地所有者として、完全に納税義務を履行せしむるために、土地処分の一切の自由は与えられ、農村は高利貸の最も残虐なる吸血場たらしめたのである。(野呂栄太郎、日本主義発達史・岩波文庫)
 こうした明治新政時代の日本の農村に対する一つの見解は、ある程度、当時の杣川村にも、あてはまっていたのではあるまいか。
 八木の杣川村への入山は、彼の先見の明、時機を得たものといえよう。まず、農民相手の金貸を始め、元金・金利は往々にして、土地として転がり込み、しだいに産をなした。しかも彼は、杣川村に骨を埋める覚悟で、明治二十五年本村に戸籍を移している。
 明治二十九年、村会議員に当選、その後、二回、議員に選ばれている。
 明治三十五年(一九〇二)三月、渋草に郵便局(三等局)が開設せられるや初代杣野郵便局長に就任した。山村僻地の郵便局長は、その土地の名望家、しかも資産家で、局舎提供を必要とし請負制度、文筆の素養を必要とした。八木は正しくその適任者であり、彼がいなければ杣野郵便局の設置は相当遅れたのではあるまいか。
 野にあっては土地の資産家、そしてまた、議員として村の行政に携わり、いわゆる「且那さん」と呼ばれるにふさわしい人物であった。
 大正十二年、重見盛蔵の長男丈太郎とともに、面河電気物産株式会社を渋草に設立。初代の取締役・社長に就任、杣川村産業開発の先駆者として、活躍している。
 胤愛の次男胤顕は、早稲田大学政治経済学部卒業、三男胤幸は、慶応義塾大学医学部卒業、胤顕は大正九年面河村収入役に就任している。胤幸は医学博士、横浜市八木医院長、そしてまた郷土後輩医学生の、よき指導者でもあるという。
 四男胤雅は、昭和二年から父胤愛の後を受けて杣川(杣野)郵便局長に就任した。
 教育を重視した胤愛の進歩的な気質をうかがうことができる。
 ただ、胤愛にとっての不幸は、愛妻アサを大正六年冬、雪の黒森越えで亡くしたことである。そしてみずからも、昭和十年八月、松山の寓居で静かに天寿を終えた。
 彼が若きころ、青志を抱いて、墳墓の地としようとした渋草駄馬墓地に、八木胤愛の墓標は寂として立っている。
 重見盛蔵は商人である。駄馬を引き、渋草から黒森峠を越えて、温泉郡川之内から清酒を仕入れ、その小売を始めた。やがて、これが、竹ノ谷の水を利用して、自家醸造「おもご正宗」、そして大正十二年設立された面河電気物産株式会社の基礎をなしたのである。
 明治三十八年、杣川村会議員に当選、明治四十四年、上浮穴郡会議員に杣川村選挙区から選出されている。
     当 選 証 書
   上浮穴郡杣川村大字杣野百五番地
        平民商業
          重 見 盛 蔵
           安政元年七月十二日生
   右杣川村選挙区ニ於テ郡会議員ニ当選セシコトヲ証ス
    明治四十四年十月六日
        上浮穴郡長 松田虎次郎
 清酒の自家醸造販売からさらに材木の売買にまで商売を広め、杣川村産業界に不抜の基盤を築き、議員などの名誉職にも就任した。
 家業を継いだ長男丈太郎は、抜群の商才を持ち、村長・村会議員として、また行政力においてもその功績は賞賛を博し、名実ともに、杣川村の第一人者となった。これ実に盛蔵がこの地の開拓者として、営々と築いた努力にほかならないものがある。
 盛蔵の晩年は、悠々自適、なんら後顧の憂なく、昭和五年十一月、天寿を全うした。
 明治新政以来二十有余年、明治二十三年ごろのこの草深い山間僻地は、農民の封建的な文盲と相まって、産業、文化などすべてにおいて、県都松山よりは、十余年の遅れがあったであろう。こうした時期に、この杣川の地に、産業上の革命をもたらし、杣川村初期から、中期にかけて、明治開化の蕾をつけた、八木胤愛・重見盛蔵の両翁は、その大先達であり、その業績を永遠に伝え、たたえたいものである。