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面河村誌

五 日清戦争

 明治十五年(一九八二)以来、朝鮮半島は騒然たるものがあった。京城事件(一九八二から、一九八四、京城で起こった排日暴動、日本軍は、一時王宮を占拠したが清国の反撃で日本軍退却)、そして東学党の乱(一八九五、朝鮮全羅道を中心に起こった農民の地方官苛政に対する叛乱)では、ついに李朝は、清国に助けを求め、以来朝鮮は、清国軍の支配下にあった。また、ロシアも虎視眈々として、南下の機会をねらっていたので、日本政府は、居留民保護の目的で、混成第九旅団が出兵した。そして朝鮮の内政改革、清国兵の朝鮮撤退を要求したが、すべて拒否されたので、日本は武力で韓国王宮を占領、明治三十七年(一八九四)八月一日政府は、清国に対して宣戦を通告した。
 明治二十七年九月八日、広島第五師団司令部構内に、大本営が設置された。大本営とは、戦時に、大元帥(天皇)が統帥する本営のことで、大本営令によれば、「天皇ノ大隷下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス」とあり、「参謀総長(陸軍)、軍令部総長(海軍)ハ各其ノ幕僚ノ長トシテ惟幄、機務ニ奉仕シ作戦ニ参画シ終局ノ目的二稽へ陸海両軍ノ策応協同ヲ図ルヲ任トス」とある。
 大本営がこの戦役に投入しようとした兵力は四個師団と第四近衛の両師団及び臨時編成師団、それに後備部隊からの一部で、全兵力二十万余、これを清軍二○万にぶっつける、まさに一大決戦である。「眠れる獅子」といわれた老大国清国に立ち向かう、新興日本の気負いがうかがわれる。
 戦争は、宣戦布告に先だって、豊島沖で清国軍艦を撃沈、黄海の海戦に大勝利を収め、大連・旅順・威海衛を占領した。
 明治二十七年八月二日、松山歩兵第二十二連隊に動員令下る。連隊第二大隊は、京城駐屯の混成六九旅団に合するため、出征の途に上り元山に上陸、京城に向かう。
 その他の連隊兵士は八月十四日から十七日に出征、同二十一日仁川上陸、京城付近に集合して、師団に合流、第一軍に編入され、平壌攻撃に参加し、さらに北上して、義州付近に集合した。十月鴨緑江右岸の敵を駆逐し、九連城を攻撃した。
 同年十二月十日草河口を占領、その戦闘は連隊出征以来初めて、全隊相合し、最大激烈なる戦いであったという。
 明治二十八年三月連隊は、第一軍の手荘城攻撃に参加し、それから、同年六月に至る間、雪裡店・営ロに分屯して守備の任に就いた。
 明治維新以来、営々として「富国強兵」に努めた新興日本が帝国主義、植民地争奪の国際情勢の下で各国の注目を浴びながら戦った日清戦争は、ついに日本が全面勝利を収めたのである。
 明治二十八年(一八九五)四月十七日、下関条約(日清戦争の講和条約)が調印された。清国全権李鴻章・日本全権伊藤博文。その主たる内容は朝鮮の完全独立・遼東半島・台湾・澎湖島の割譲などである。しかしながら遼東半島については、ドイツ・ロシア・フランスのいわゆる「三国干渉」のため、後これを清国に返還した。
 明治二十七、八年戦争と下関条約は、日本の帝国主義的膨張のための、出発点であったのである。清国の支配から、離れた、朝鮮の独立承認は、日本資本主義のための販路を開き、台湾の獲得は、南進基地として、重要なるものであり、償金二億三〇〇〇万両は、日本の金本位制の実施を可能にし、下関条約は、日本に、先進諸国と同様な地位を与え日本の国際的地位を向上させ、日本資本主義を強固にした。
 松山歩兵第二十二連隊は、明治二十八年五月下旬から、六月上旬にかけて、遼東半島各駐屯地より、金州に集結、梯団を組んで、懐かしの故国に向かう輸送船団は、大連湾を埋め尽くしたという。
 松山歩兵第二十二連隊の凱旋第一陣は、七月十三日、高浜に上陸した。
 当村の出征兵士出迎えの行事は次のごとくであった。
  明治二十八年五月二十七日兵事会員各大組長召集ノ上協議会ヲ開ク
     協 議 案
  一 征清軍人解隊帰郷二付歓迎スルノ件六月二日松山公会堂二於テ開ク準備協議会へ立会人弐名トシ往復四日間ノ見込トシ一日日当壱名五拾銭卜定メ村上英市菅福次両名ト決シ予備員中川清章トス右ハ兵事会員投票ノ結果ニヨリ決ス
    但隣村聞合ノ上立会否等ノ村アルトキハ其方へ賛成ス
   松山公会堂ニ出席ノ上協議ノ結果ニ依リ若ヤ高浜迄出迎スル事ニ決スル事ナレバ当村ニ於テ弐名ノ出迎者ヲ出ス事
   出席者ハ前公会堂ニ臨席ナシタル弐名ニ托ス
    但隣村聞合ノ上若ヤ否等ノ村アルトキハ其ノ方へ賛成ス
   軍人帰郷ノ際久万町迄出迎ノ人員ハ村長並ニ兵事会員各大組長出迎スル事ニ決ス
   軍人帰郷后軍人慰労会ヲ開ク節軍人ノ肴酒ハ別ニ整へ其他有志者ハ各自弁当持参ノ事ニ決ス又当日ハ兵事会員各大組長其他
   小組長其他有志ノ輩出席スタ事ニ決ス
 近代装備の日本軍が、初めて戦う日清戦争、戦争そのものよりも、酷暑・酷寒・しかも病疫の大陸に転戦すること八か月、戦死・戦病死・戦後戦傷のため死亡した者を含めて、将兵の死は、一万七二八二人、准士官(特務曹長)以下(曹長・軍曹・伍長・上等兵・一・二等卒)の死は、一万七〇四一人を占めている。
 国民皆兵、徴兵で狩り出された若き兵士はみずからの血で日清戦争を支えたともいえる。
 軍馬は、一万一五三二頭、ものいわぬ、哀れな犠牲である。
 軍事費、二億四十七万五千余円、清国捕虜一万七九〇人、作戦地域は、東西四四〇キロ、南北は二〇八〇キロ、一〇万五六〇〇平方キロ。
 松山歩兵第二十二連隊の死者は、二二〇人、うち戦死四四人、戦病死一七二人、戦傷一三二人、意外に多いのは、戦病死者、風土の異なった厳しい環境で、苦闘したことを如実に示している。
 なお本村出身者の、出征兵士の氏名は、残念ながら不詳であるが、
  杣野(前組)七三番地
    陸軍歩兵一等卒 池川市太郎
      明治三十八年一月二十三日
       朝鮮新義州陸軍病院で戦病死している。
 この戦争に、正岡子規は、陸軍従軍記者として参戦、次の句を詠んでいる。
   なき人のむくろを隠せ春の草
 この戦争の前後、洋楽のリズムを取り入れ、その旋律を加味した「唱歌」も、国家主義的な教育と相まってその内容も軍国的日本をたたえるものが流行し始めた。
    凱  旋
  道は六百八十里 
  長門の浦を船出して
  早や二歳を故里の (以下略)
     勇敢なる水兵(黄海の海戦)
   一、煙も見えず 雲もなく
     風も起らず 浪立たず
     鏡の如き 黄海は
     曇りそめたり時の間に
   二、空に知られぬ いかづちか
     浪にきらめく 稲妻か
     煙は空を 立ちこめて
     天つ日かげも色くらし (以下略)