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面河村誌

八 大正デモクラシーの一断面

 明治二十八年、日露戦争で、大国ロシアを征覇した日本は、英・米・仏と並ぶ世界の大国に、のし上がった。
 大正時代はわずか一四年間、明治と昭和の二つの時代の谷間である。
 大正デモクラシーというのは、一九〇五年から、ほぼ二〇年間にわたって、日本の政治、広く社会、文化の各方面に、顕著に現れた、民主主義的傾向をいうのであるが、これを生み出したものは、基本的にいって、広汎な民衆の政治的、市民的自由の獲得と、その擁護のための諸運動である。
 日露戦争の結果、アジアにおける唯一の帝国主義国としての地歩を確立した日本は、財政面においては、著しく弱体ぶりを示した。日露戦争の戦費は、大半、外債(外国からの借金)に頼るほかなく、(合計四○○○万ポンド(英貨)一ポンド約日本円一〇円)しかも、ロシアからの賠償金は、皆無であり、すべて、国民の上にのしかかった。戦後において軍事費が、国民生活をさらに圧迫することとなった。
 戦勝による新領土の獲得、勢力範囲の拡張は、戦前の陸軍常備軍一三個師団から一七個師団へ、海軍の総トン数を、二五万トンから四〇万トンヘと増加させた。さらに、明治四十年(一九〇七)帝国国防方針が策定され、陸軍二五個師団、海軍八八艦隊(戦艦八隻、巡洋艦八隻)の建設が計画された。その第一歩として、明治四十年度において、二個師団の増設と、海軍充実七か年計画が予算化された。このため、国家の財政支出は、明治三十九年(一九〇六)度五億五〇〇万円から、四〇年度は、六億三〇〇〇万円とふくれ上がり、三分の一が軍事費、他の三分の一が戦時公債を中心とする利息の支払、行政、教育等の内政諸経費は、残りの三分の一、軍国主義財政は、戦後も継続したのである。
 財政の軍国主義的性格は、戦時の重税を恒久化したことである。当然、悪税反対運動の開始である。塩専売・通行税・織物税を、三悪税といった。そして、運動の目指すところは、単なる個々の税制の改廃に、とどまらず、国家財政の全面的改革にあった。帝国主義日本の必然的所産の軍備と、財政の矛盾を、軍備の拡張を抑制することにより、打開せんとするものであった。
 青鞜社は、我が国婦人解放運動の先駆である。明治四十四年平塚明子(雷鳥)を中心とする女流文学団体である。機関紙「青鞜」を発行、婦人問題を進歩的角度から取り扱い、新思想を紹介、鼓吹した。「青鞜」創刊号の巻頭の「原始時代女性は太陽であった」の文句は、余りにも有名である。
 資本主義の発展は、女子に適する職場を発生させ、女子工員・電話交換手・女教師・百貨店の従業員など、職業婦人の急増は、社会事情による必然の結果であると同時に、女子が男子の附属物の位を脱し、公然と社会の表面に出て、活動を開始しようとする合図でもあった。職業婦人は社会に接する訓練を与えられ、虚栄心をもたず、身体的にも健全であり、彼女らこそ、新時代に生きる、女性の当然の姿であった。
 このような婦人観に立つ以上、理想とする家庭は、単なる家長の専制を排した夫婦本位のそれでなく、職業を持ち、経済的に独立した、男女の結びつきを基礎とするものであるといわれた。
 大正九年(一九二〇)三月、市川房枝ら、新婦人協会を結成、政府は大正十一年四月、婦人の政談集会を許可、同年五月、新婦人協会は、我が国最初の婦人政談演説会を開催した。
 大正七年(一九一八)八月、富山県下の漁村の主婦たちが、「米を安くしてくれ」と叫んで蜂起したのをきっかけとして起きた騒動を米騒動という。
 米価は、大正六年中ごろから著しく高騰し、大正七年に入ると、一升五〇銭を突破しようとした。
 この騒動は、たちまち全国的に展開し、大都市のみならず、農村・工場・炭坑に至るまで広がり、七〇万人が動員され、六〇市町村に、軍隊が出動した。無為、無能な寺内軍閥内閣は、これによってついに瓦壌するほど、この米騒動の波紋は大きかった。
 大正七年八月二十二日未明、愛媛県宇和島市でも大暴動が起こり幾千の群集が、順次米屋に殺到、米を一升二五銭、醤油は一升二〇銭、清酒一升五〇銭に値下げさせた。
 一か月間にわたり、全国各地に続発した米騒動は、未曽有の人民蜂起であった。示威暴動の発生した地点は、三八市、一五三町、一七七村、政府は全国一二〇地点に、のべ九万二〇〇〇人もの軍隊を出動させ、民衆を鎮圧した。
 大正デモクラシーの史上で、米騒動のもつ意味は、重大であった。第一にそれは、民衆自身による生活擁護闘争であった。政治には、かかわりのない一揆、うちこわし的無秩序な街頭運動であったが、大衆はみずからの生活問題を無視する政治への不信をいかなる既成の政治勢力にも指導されることなく行動をもって示し、民衆の外側にあった政治を民衆の基盤の上にすえ直そうという民衆意識の転換運動であった。
 次に米騒動は、みずからの政治組織をもたぬ民衆に、政治体制の変革を要求する運動、つまり、普通選挙の実施など、専制的な政治機構の、抜本的な改革が主張されるに至った。
 大正八年(一九一九)、原敬内閣は、小選挙区制と、納税資格の緩和(直接国税の最低限一〇円を三円に引き下げる)を内容とする選挙法改正を行った。納税資格の緩和は、有権者を、一四二万から、三〇七万へと倍増させたが、新有権者の大半は、保守的な農村の小地主、しかも、これは、在来の政友会(政府与党)の地盤である。
 大正十三年(一九二四)、加藤高明内閣(憲政会)の成立は、政党政治時代の到来を告げて、世論は、こぞって歓迎した。しかしながら枢密院・貴族院・軍部機構の法的地位は、全く変化しなかった。
 明治憲法が自由民権の勝利の表現でないと同様に、政党政治体制も、大正デモクラシーの勝利の産物とはいえない。それからわずか八年後、政党政治体制そのものを終わらせた。
 大正十四年(一九二五)五月、待望の衆議院選挙法公布。二五歳以上の男子すべてに、選挙権が与えられた。いわゆる普通選挙法である。
 大正デモクラシー、それはやがて、昭和のファシズムに、たあいもなく踏みつぶされるブルジョワ自由主義の徒花である。しかしながら、この徒花も、明治時代の重苦しさはなく、ほっと一息ついたあわれががあったかも知れない。