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面河村誌

四 日華事変

 昭和十二年(一九三七)七月七日、北京郊外蘆溝橋付近で深夜演習中の日本軍は、中国軍から射撃を受けた。一時停戦協定は成立したものの、当時の緊迫した日中間の情勢の中でついに近衛内閣は北支に派兵を決定し、現地解決の線は崩れ、全面戦争へ突入した。
 昭和十二年十一月、杭州湾に上陸、日独防共協定にイタリアも参加。同十二月、日本軍は南京を占領した。翌十三年政府は支那事変処理根本方針を決定、和平工作を打ち切り「国民政府を相手とせず」との声明を発表した。
 同年五月徐州占領、同十月武漢三鎮を征覇した。
 昭和十四年五月、日本軍は外蒙古軍とノモンハンで衝突、ソ連軍は外蒙軍を援助し、ソ連の戦車隊に日本軍は惨敗を喫した。(ノモンハン事件)
 このように日本軍は、北支から中支、南支へと戦線を延ばしたが、国民政府(蒋介石)軍を屈服することができなかった。
 昭和十二年の満州事変を発端とする大陸の戦線はしだいに拡大し、陸軍を中心とする召集令状は全国にわたり発せられた。面河村においても昭和十六年十二月太平洋戦争突入までに、昭和十二年一〇三名、同十三年四三名、同十五年一五名、同十六年七三名、合計二六三名がそれぞれの部隊に召集され、御用船で次々と大陸各地の戦線に運ばれていった。
 ほとんどの青年は、現役兵として入営し、さらにその補充として予備・後備役の年長者の召集で、所によっては老人・婦女・子供だけの集落になった。
 たった赤紙一枚、この召集令状は、ある日突然やってくる。異議を申し立てるすべもなく、営々と築いた家業を放棄し親・兄弟・妻子と別れ、黙々と戦線に狩り出された。
  勝って来るぞと勇ましく
  誓って国を出たからにゃ
  手柄たてずにいらりょか
  進軍ラッパ聞くたびに
  まぶたに浮ぶ母の顔
 日清戦争から太平洋戦争に至る事変・戦争に出征し、異国の空で戦没した勇士たちの英霊は、東京の靖国神社・松山の護国神社の御霊として、それぞれ毎年春、秋二回大祭が執行されている。
 なお毎年八月十五日の終戦記念日には、東京において天皇・皇后両陛下臨席され慰霊祭が行われ、全国から遺族代表が式典に参列している。
 面河村においても、日華事変費を予算に計上し(昭和十三年二月、累計四、七一〇円)、戦線から帰った遺骨の出迎え、村葬の執行など、ねんごろに供養を執り行い、渋草に「忠魂碑」を建立、郷土勇士の武勲を永遠にしのぶよすがとしている。
   日 清 戦 争             一柱
   日 露 戦 争            一八柱
   満州事変から太平洋戦争       一八四柱
   註 戦没勇士名簿、その遺族の住所氏名は、戦没者名簿として掲載