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面河村誌

八 村行政の発展と充実

 昭和二年本村の人口は次のごとくである。
  本籍人口  四六六八人
  現住人口  三二二八人
 役場の事務分担は次のとおりである。
  村 長              菅   広 綱
  助 役 名誉職・非常勤      松 本 重 一
  収入役              菅   誠 明
  書 記 庶務・兵事・衛生・土木  中 谷 与 市 
  同   税務・土地        八 幡 義 明
  同   戸籍・学事・社会・社事  土 居 知 直
  技手  勧業           松 田   正
 昭和二年度当初予算は歳入、歳出それぞれ五万七〇一九円、村税は二万五〇七八円八三銭である。
 昭和五十年の当村人口は次のごとくである。
  本籍人口  四八〇〇人
  現在人口  一七一一人
 役場の事務分担は次のとおりである。
  村 長        中川 鬼子太郎
  助 役        脇 本 武 雄
  収入役        中 川 英 明
  総務企画課長     松 村 義 一
               外職員七名
  住民福祉課畏     菅   詮 明
               外職員六名
  産業観光課長     和 泉 太 郎
               外職員五名
  建設課長       中 川 忠 幸
               外職員五名
  国土調査課長     高 岡 君 夫
               外職員三名
  出 納 室      脇 本 ユキ子
  国民健康保険
  診療所所長医師    伊 藤 蔦 子
  同 事 務 長    竹 中 盛 己
               看護婦二名
               外職員二名
  公営企業課長     藤 原 道 明
   企業出納      木 下 正 行
   国民宿舎面河    菅   和 繁
   同  石 鎚    菅   盛 幸
   観光センター    菅   繁 良
               外職員五名
           季節傭人女子一二名
  議会事務局長     梅 木 正 一
               外職員一名
    教 育 委 員 会
  教 育 長      高 岡 幸 盛
               外職員二名
   面河少年自然の家       一名
   村立学校事務         一名
   幼児学級保母         二名
   村立学校給食婦        六名
   県費・村立学校事務      二名
   愛媛県委託・石鎚スカ 
   イライン料金徴集所      四名
 昭和五十二年度当初予算は、歳入、歳出ともに
   一 般 会 計       七四三、八三〇千円
   特 別 会 計
   公 営 企 業       二七二、七七六千円
                  (貸借対照表)
   国民健康保険
 村民税の収入は、四〇六万円である。
 これを昭和二年(一九二七)の一般会計分と対比すれば、
   事 業 勘 定        八三、五一六千円
   診療施設勘定         四三、六七七千円
   少年自然の家         二二、一四三千円
   し尿・ごみ処理        一二、八六二千円

 昭和二年を基準とし、昭和五十二年度の当該倍率を見るに、人口は〇・五一倍、つまり五一%なるも、特別職職員の員数は六・八倍、予算は一、三〇四倍、村民税は一六二倍である。
 人口が減少して諸般の倍率が上昇するのは住民サービスの向上、福祉の充実、土木事業の拡充及び委任事務の増大、教育施設の整備などによるのである。もちろん貨幣価値の変動も考慮されなければならない。
 石鎚山・面河渓は、面河村が誇る関西屈指の景観であり、重要なる観光資源でもある。昭和三十年(一九五五)十一月一日、国定公園に指定された。
 県道石鎚スカイライン有料道路の開通は、昭和四十五年(一九七〇)九月一日である。総工費二一億五四〇〇万円余、起点関門から土小屋まで、標高差八五〇メートル、延長一八・一キロ、二車線、全線舗装、石鎚山、瓶ヶ森、面河観光の大動脈である。
 石鎚スカイライン開通以来昭和五十二年十一月末日までに、乗合バス一八三三台、普通自動車三万五七四二台、推定人員二三万四六〇二人が利用している。
 けれども、石鎚スカイラインのネックは、国道三三号線の御三戸から関門までの約一三キロの県道である。県はこの路線の二車線拡張工事を実施中で、目下その四〇%の工事を完了している。工事完成予定は、昭和五十八年、総工費概算四九億円である。
 この県道は、石鎚、面河の観光ルート、しかも石鎚スカイライン・瓶ヶ森村道・寒風山トンネルを経て、西条市を結ぶ四国山脈縦断ハイウェイ路線の一部であり、面河渓側の起点でもある。また、面河村にとっても、行政・経済・そして文化など各分野にわたる生命線である。
 昭和四十一年五月一日、村長青木末広は、面河村国民宿舎条例を制定し、その運営は独立採算制を基本とし、特別会計をもって、予算措置を行うこととなった。
 昭和四十一年(一九六六)六月、国民宿舎面河、同四十六年(一九七一)六月、観光センター、同四十八年(一九七二)四月、国民宿舎石鎚、岩黒の営業を開始した。
 国民宿舎面河の営業開始以来約一〇年、それぞれの施設・宿舎も、当初危惧された危機も起こらず、順調に成果を挙げ、特に昭和五十二年度は、これまでの最高三二四八万九三九六円の収益であった。
 これはもちろん、石鎚スカイラインの開通と、経済の低成長期に入り、レジャーも手近な石鎚山探勝・面河渓の散策へと堅実に定着したためともいえる。加えて、国民宿舎諸施設の適切なる運営によるものと推察される。
 昭和三十八年(一九六三)十一月、面河ダムが完成した。ダム並びに発電・農・工業用水施設・道路等の付帯工事いっさい、総工費一〇八億四四九一万円、水没地区の八六戸、三六一人が墳墓の地、笠方地区を去っていった。面河村にとって、かつて経験したことのないできごとであり、感無量である。
 太平洋に注ぐべき、面河川・割石川の水が、黒森山を抜けて、道前・道後平野へ、そして瀬戸内海へと流れて行くのである。
 静まりかえった紺碧の面河ダムの水面、無言のうちに、いつまでも先人の努力を伝えることであろう。
 医療の防波堤の役割として、旧国民健康保険法が公布されたのが昭和十三年(一九三八)である。
 当時の農村は、疲弊のどん底にあえぎ、国は大陸進出政策をとり、いわゆる「健民健兵対策」の名のもとに、国民健康保険を推し進めた。当初の国民健康保険会計は、保険税と一般会計より繰り入れで賄われていた。国・県費の助成も極く少なく、村の経済的負担が多かった。
 昭和二十年太平洋戦争終了後一時、休・廃止した。
 面河村の国民健康保険業務の開始は、昭和三十年(一九五五)九月一日である。(村長重見丈太郎)爾後順調に発展して、昭和五十一年度においては、
  被保険世帯      四一七
  被保険者     一、三○三
  村負担金      五八、〇〇八千円
  老人無料負担金   二一、五三三千円
  高額療養費      二、七八四千円
  国庫負担金     五八、六五〇千円
  保 険 税     一一、九六三千円
である。
 無医村の解消は、村民多年の切なる願望であった。しかしながら、せっかく医師を招聘しても、医療施設の不備は、いかんともしがたく、まずその施設の整備に踏み切った。
 昭和三十一年(一九五六)十月三十一日、国民健康保険面河診療所は新築竣工した。(村長重見丈太郎)診療棟・医師住宅・工費二五三万円、初代所長医師河野通・現所長医師伊藤蔦子に至る間二十有余年、この山村僻地の医療の火を消すことなく村民の健康を守り続けている。
 ちなみに、昭和五十年度施療患者概数は、一万一六〇〇人、その他老人の健康診断、小・中学生の保健衛生・乳幼児の定期検診・村民の健康相談など、面河診療所は、村民にとって欠くことのできない保健センターである。
 社会福祉の目玉は、老人(七〇歳以上)医療費の無料と、老齢福祉年金(無拠出者に対する)である。
 昭和四十八年(一九七三)老人医療費支給制度が施行され、当村もこれに必要なる条例を制定している。老齢福祉年金制度も実施された。当村における当該年金受給者は、一七三人、月額一六五〇円、年間、三一一四万円である。
 面河村においても、昭和四十七年三月、敬老年金支給条例を制定(村長中川鬼子太郎)七十歳以上の老人に対して、年間三〇〇〇円を支給、さらに増額して、五〇〇〇円とした。
 毎年敬老の日(九月十五日)には、敬老会を催し、その費用として、一人当たり一〇〇〇円を支出している。
 昭和四十年代の高度経済成長期以来、農山村の人口は、しだいに都市に流出して過疎地となり、往年の農村の面影は全くなくなった。昭和四十七年(一九七二)(村長中川鬼子太郎)面河村振興開発計画として、総合開発基本構想をまとめ、さらに同四十九年過疎地域振興計画に伴う振興の基本方針を打ち出し、総額一二億四三〇〇万円の経費を計上し、施設事業を推進し、昭和五十二年度において、その四二・五%の達成率を示している。
 昭和五十年、さらに一歩を進めて開発計画策定を、日本コンサルタントグループに委嘱し、産業の振興・行政・財政などにつき、その開発計画の具現化に邁進している。要約すれば、いかにして人口の流出を防ぎ、Uターンを期待するかである。
 昭和五十二年(一九七七)十月、役場新庁舎・住民センターが竣工した。特にコミュニティ活動を重視し、住民センターを中心として、コミュニティの具体的な課題に、それぞれの活動を地道に取り組んでいる。
 杣川村の誕生は、明治二十三年(一八九〇)である。上浮穴郡において、大正後期から昭和時代町村の統廃合が行われたが、面河村の規模は、旧杣川村誕生以来そのままである。これはもちろん地理的な条件にもよることであろうが、愛媛県下でも唯一のものではあるまいか。
 地域開発では、面河ダム・石鎚スカイライン・面河官山の伐採等が挙げられようが、特に地域の砂漠化もなく、コンビナートの建設による公害のたれ流しもなく、ほぼ往年の自然の姿を保っている。
 産業の様相は一変した。焼畑農業の代表作、玉蜀黍・粟・稗、そして、三椏・楮・木炭は姿を消し、製茶・椎葺それに観光産業を恨幹とした第三次産業に活路を求めんとしている。
 小・中学校の教育は特に目ざましい。かつては、教育の後進村であったこの村は、現在施設においても、教育環境においても他町村に伍している。昭和五十三年三月、村立面河中学校卒業生三四名中、高等学校進学者は一九名、実に五六%である。現在大学(四年制)に在学している者もいる。
 交通網の発違とともに、急速に普及した普通乗用車三二六台、一・七戸に一台、五・五人に自動車一台の割合である。
 各家庭に電話・カラーテレビを備え、食生活・服装・さらにレジャーにおいても、都市となんら変わらない。明治、大正時代の農山村の生活と比較すれば、まさに驚異的である。ただ、惜しむらくは、古来の風俗・慣習・伝統芸能などがややもすれば喪失されがちである。
 杣川村発足以来、八十九年、まさに一世紀に近い、昭和九年一月一日面河村と改称、昭和四十九年一月一日、村名改称四十周年を祝っている。第一代村長土居勝四郎より、第三十二代村長中川鬼子太郎に至る間、二〇名の村長が歴任している。
 戦前の地方自治の意義は、地域社会の伝統的秩序の維持に求められた。その精神は終戦の時に至るまで、いや現在に至るまで、その程度の差こそあれ、受け継がれている。大正時代の資本主義の発達に伴う都市の誕生は、そこにおける諸利益の対立激化、いわば、悪の温床であり、農村の平和こそ国の平和につながるものと考えられた。
 「町村の自治というものは、唯規律とか、法律とかに、本義を求むべきでない。恰も一家の団欒に於けるが如し。」とは、明治の先哲の言葉である。
 歴代の面河村長は、多少の紆余曲折はあったとしても、本来の使命にもとることなく、約九〇年にわたる面河村の歴史の流れを比較的淀みなく受け継いできた。
 「石鎚の聖流郷面河」しかし、「国破れて山河あり」では意味はない。新庁舎・住民センターの堂々たる白亜の建物が夜泣きしたのでは先祖に申しわけない。これを踏台として、かつて策定したかずかずの開発計画、さらに村民のビジョンと英知を集めて、この面河村を永遠に繁栄させたいものである。

昭和2年と昭和52年の人口等の比較

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