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面河村誌

一 江戸時代

 現在の面河村に関する人口や集落を記した古いものは、伊予史談会所蔵の「久万山手鑑」である。これには「久万町土居通清氏の蔵本を写す」と記され、寛保前後の書記か、とある。寛保元年が、西暦一七四一年で、今から約二四〇年前のことであり、大味川、杣野の農民も参加した久万山騒動が起こった年でもある。それ以前の集落の形成は、伝説の域を出ていないと思われるので、本編の記述は、江戸時代から始めることにする。
 さて、「久万山手鑑」は、松山藩政の立場から、久万山の村ごとに、生産・租税・戸数・人口・社寺などについて記したものであるが、面河村の人口、戸数については次のような記述がみえる。
    大味川村 庄屋 小倉平左衛門                  
   一 家数  百四拾弐軒                       
      内                             
     百拾九軒     百姓門                   
     弐拾三軒     無縁家来                 
   一 宗門人高  八百八拾五人                 
      内                         
     四百弐拾九人   男 
     四百四拾八人   女
     四人       社人
     弐人       山伏
     弐人       瞽女
     杣野村 庄屋 孫兵術   
   一 家数  百六拾五軒
      内                                  
     百五拾軒     百姓門                  
     拾五軒      無縁                    
   一 宗門人高  九百七拾五人               
      内
     四百七拾九人   男
     四百九拾四人   女
     弐人       山伏
 この記録で明らかなように、藩政上の単位としては、大味川村と杣野村に二分されており、加えて、大味川村の庄屋は、直瀬村の庄屋が兼務していたところから、当時の面河は直瀬とのつながりが深かったことが想像される。職業的には、圧倒的に農業が多く、社人(神に仕える人)、山伏(仏の道を修行する者)、瞽女(ごぜ=三弦を弾き銭を請う目の見えない女性)が数人いる程度である。農業に従事する者も、生産力の進んだ他の地域にみられるような、無縁(耕地を持たないか、わずかしか持っていない者)への分解が、少ない。なお、杣野村の山伏として、赤鬼法性院の伝説に出てくる法性院の名が登場されているのは別の面から注目される。
 ともあれ、江戸時代中期の、享保十八年(一七三三)から寛保元年(一七四一)ころに、今日の人口を、約二五〇人も上回る一八六〇人もの人口が存在したことは、大きな驚きである。
 さて、もう一つの「久万山手鑑」がある。こちらは、名智氏所蔵のものであるが、これによると、明和八卯年改として、次表のような記述がみえる。
 明和八年は、一七七一年であり、さきの「久万山手鑑」の記録をかりに寛保元年(一七四一)とすると、あとの「久万山手鑑」の記録は、ちょうど三〇年後のものとなる。一八六〇人から二一五六人に増えたのだから、ほぼ一年に一〇人ずつ増えたことになる。これは、享保の大ききん(一七三二)の打撃から、生産や生活が立ち直っていきつつあることを推測させる。
 もう一つ注目されるのは、今日の集落の原型がほぼ完全にできあがっていることである。前表の昼野々から明までの集落名は、表記上の違いがある程度で、今日の集落名と同じである。

集落の人口

集落の人口