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面河村誌

二 現落合久万線

 大正十年(一九二一)村長菅広綱は、杣川村道路方針を、次のとおり、杣川村会に提案して承認を得ている。
   道路方針決定ノ件(原文のまま)
   本村改発上最モ急ヲ要スルモノハ道路ノ改修ニアルハ言ヲ俟タサル処ナリ而シテ之レカ改修ニ就テハ何レノ道路タリ共一日モ等閑ニ附スルヲ得サル所ナリト雖モ先ツ第一着ニ幹線ノ改修ヲナスヲ必要トス幸ニシテ本村ハ最重要ナル二線ヲ県道ニ認定セラレ近ク之カ改修ニ着手セラレントスルノ曙光アルハ喜フヘキ事ナリトス尚之カ目的ヲ達成セントスルニハ確固夕ル決心ヲ以テ全村一致奮闘努カスルヲ要スルカ故ニ左記方法ニ向ツテ猛進シ一日モ早ク之レカ貫徹ヲ期セントス
      左   記
  一、本村道路ハ左記五線ヲ第一着ニ改修ス
   (一) 三内線 (二) 面河線 (三) 杣川川瀬線 (四) 杣川仕七川線 (五) 杣川桜木線
  二、以上ノ内、三内線、杣川桜木線、杣川仕七川線の三線ハ県道トシテ近ク改修サルル様前記ノ目的ヲ以テ貫徹ヲ期スル事
  三、杣川川瀬線及面河線ノ二線ハ五分ノ一ヲ関係部落ノ寄附ニ依リ五分ノ四ヲ県郡ノ補助ト村債並ニ村費ヲ以テ之ニ充テ大正  拾年度ヨリ改修ニ着手スル事
 大正九年(一九二〇)村長渡部基綱の道路方針は、村内の交通路である村道の整備改修の促進であり、今回の道路方針は、杣川村が県道の誘致に対する運動の発足でもあった。当時の村当局並びに村民の県道に対する熱意、つまり関係集落が金銭を投げ出しても、ぜひ県道開通を切望した様子が、如実にうかがい知ることができる。
 昭和七年(一九三二)村長重見丈太郎は、既に認定された県道久万若山線の改修工事費に対し一七〇八円の寄付を決定している。
 以上、さまざまな物心両面からの、県道開通運動の結果、ようやく昭和十三年(一九三八)四月、村民待望の久万若山線の開通式が、若山において盛大に挙行された。
 さらに面河渓関門まで開通、伊予鉄・国鉄乗合バスの定期運行、面河・石鎚の観光ルートとして、かつまた、本村のメインストリートとしてますます重きをなしている。
 昭和三十年(一九五五)村長重見丈太郎は、杣川松山線(黒森線)をも含めて、この路線の維持修繕費として五〇万円の寄付を村議会に提出、承認決定を得た。さらに昭和三十七年(一九六二)面河渓駐車場として、関門村営観光センター前の民有地、四筆約一反八畝、買収価格約五二万円の山林を村が買収、これを愛媛県に寄付している。
 昭和四十五年(一九七〇)石鎚スカイラインの開通、世は高度経済成長の時代、県内外から大型貸切乗合バスやマイカーが、面河・石鎚観光のため、昭和四十五年には乗合バス三二〇四台、昭和四十八年には普通車五万三四三台(ともに石鎚スカイライン通過のみ)の最高記録を示した。特に観光シーズンのピーク期には、御三戸関門間の県道は、時に数キロにわたり、車の渋帯があり、これがため県はこの路線の二車線拡張工事を実施、目下施工中である。
 ちなみに、この工事の完成予定は昭和五十八年、総工費概算約四九億円である。このようにして路線延長(除石鎚スカイライン)約一三キロメートル、現在そのうち約五キロ六○○メートル(約四%)は、二車線に拡張工事が完了している。
 以上、久万若山線(西条久方線)の県道誘致運動、並びにその維持改修などについて、先哲のなみなみならぬ努力の跡を述べてきた。今や、この路線は、本村交通の大動脈のみならず、石鎚スカイライン・瓶ヶ森林道の開通と併せ、面河の観光ルートとして、広く県内外に脚光を浴びている。

昭和52年9月面河村内県道路線

昭和52年9月面河村内県道路線