データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

面河村誌

六 歴代の郵便局長

 八木胤愛  自明治三十五年三月一日   至昭和二年七月二十五日
 八木胤雅  自昭和二年七月二十五日   至昭和六年六月二十五日
 菅 広綱  自昭和六年十二月十八日   至昭和三十四年六月三十日
 菅 鶴夫  自昭和二十四年八月五日   至昭和四十七年十月二十六日
 竹田 昇  自昭和四十七年十月二十七日 至昭和五十四年六月二十九日
 正岡 強  自昭和五十四年六月三十日  現在に至る
 初代杣野郵便局長八木胤愛は、明治二十三年温泉郡南吉井村より、重見盛蔵(丈太郎の父)とともに新天地開拓の意気に燃えて入山、杣川に骨を埋める覚悟で、明治二十五年本籍を移籍、明治三十五年から、昭和二年に至るまで、実に二六か年の長きにわたり、郵便局長として村民の信望を集めた。彼は杣川村収入役・村会議員として村政にも携わり、かつまた農家を対象とした金融業も順調に延び、やがて土地(山・畑)投資、大地主となり、集落の〝旦那さん〟と呼ばれるほどに、物心両面から頼りにされた。八木とともに、大正の初年杣川村の双璧といわれた一方の雄、重見丈太郎が、大正七年家業の酒造業を中心として面河物産電気株式会社を竹ノ谷に設立するや、八木は取締役社長に就任した。
 若し、八木胤愛が当時渋草にいなかったなら、あるいは杣野郵便局の開設は、相当遅れたのではあるまいかとも考えられる。なぜならば、草創時代の三等郵便局の設置基準として、局長が徳望・識見・資産を兼ね備えていることが、特に必須条件であったからである。
 八木が杣野郵便局を開局してから、既に七〇有余年、昭和の今、八木を語る人はほとんどないけれども、せめて郵便局の窓口に立つだけでも、この先哲の偉業をしのびたいものである。
 第三代郵便局長菅広綱は、生え抜きの杣川村民、昭和六年から、昭和二十八年に至る間太平洋戦争を中心とした、いわゆる激動の時代の局長であり、特に彼は昭和九年二九歳の若さで、面河村長に就任した。
 昭和二十二年、面河郵便局長当時、愛媛県会議員に立候補、みごと当選。本村初めての県会議員となり、全村挙げて彼を応援した。
 彼が県会議員当選の栄を得たのは、村長・村会議員として、県道の誘致整備運動に心血を注ぎ、産業の振興・教育行政の実績さらに、それぞれの地域の有力者である上浮穴郡内郵便局長などのこぞっての推挙を受けた結果であろう。これは実に、彼が努力の人であり、手腕・力量ともに優れ、しかも穏健なる人柄によるものである。
 昭和五十二年(一九七七)十月、面河村役場新庁舎落成なる。その庭前に、かつての僚友重見丈太郎ともに並び立つ、菅広綱のブロンズの胸像は、彼の業績と遺徳を永遠に伝えるものである。