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面河村誌

(一) 焼畑耕作

 常畑耕地の乏しい本郡では、山地斜面の土地利用をするために、山林を焼き払って耕地を造り、一定の期間作物の栽培を行っていた。これが焼畑耕作と呼ばれるものである。焼畑耕作の後は、みつまたを植栽したり造林をしたりしていた。なかには常畑となったものもある。広い意味ではみつまたの植栽地も焼き畑である。
 焼畑耕作は、藩政時代すなわち江戸時代の中ごろから行われたものであり、それ以前は、常畑をつくる手段として焼畑耕作をしていたものである。
 藩政時代は、郡内のほとんどの山林は藩主が所有していたので、農民たちは庄屋を通じて藩主から土地を借用し焼畑を営んでいた。当時の焼畑作物は、とうもろこし・ひえ・むぎ・だいずが主で、他にそば・あずき・おかぼ(陸稲)などもあった。農民は米の収穫高より、多くの年貢を納めなければならないために、米に換えてだいずを納め、年貢をやっと完納する状態であったという。
 焼畑は、谷底及び低い土地の緩斜面にある水田・常畑の周囲にあって、農民たちは耕作の便を考え焼畑小屋をつくり耕作していた。水田のない郡内の一部には、焼畑小屋に農民の二男・三男が住みついてできた高所の部落がある。
 焼畑に栽培する作物から、きび山・そば山・ひえ山と呼ばれていたが、昭和二十年ころになると焼畑をまとめて、本村あたりでは切替畑と呼ぶようになった。
 焼畑を作るには通常①準備②火入れ③焼け跡の整理という三段階で作業を行い、続いて地ごしらえ、種まきの作業を行うのである。七月上旬に樹木を切り、八月上旬に火入れを行って焼畑を作ることをやぶうちといい、十月に伐採して樹木を雪の下に置き、翌春火入れを行うのをはたきり呼んでいた。やぶうちは麦を作るための焼畑で、はたきりはとうもろこし・豆類・そば・ひえを作る焼畑である。
 伐採した木は小さく枝打ちし、山全体に広げて乾燥させ、こば焼きを行う。こば焼き前には、山の神に安全と豊作を祈り、神酒を捧げたものである。火入れに先だって伐採してある木を乾燥しやすいようにこば返し(木の枝を上下に返す作業)が行われ、山の周囲には幅一間(一九〇センチ)の防火線を切り、山火事を防ぐ作業も行われた。
 火入れは、よく乾燥をした時を見計らい無風の曇の日の午後、山の上の方から竹だい(竹を束にしたたいまつ)で火をつけた。上の方から火をつけるのは、延焼の防止と土まで焼けるからである。火がおさまるのを待って、焼け跡の整理をした。まくりあつめ(焼け残った木を集めるための股木、一間ぐらいの長さ)で焼け残った木を集め、あつめ焼きをする。また、表土の流れを防ぐために、木の幹を使ってさえぎ(土どめ)を木の株やくいを打って作る。その後うちあけ(焼跡を掘り起こす)を地掘り(唐鍬)でする。こうして焼畑を作った。焼畑はうねを作らないのが普通である。
 焼畑耕作の収穫量は自然条件に左右されやすいため、年によって異なっていた。その上鳥獣の被害も大きかったので常畑よりも少ない収穫であった。焼畑の地方維持は困難であり、年々収穫は減少していった。作物栽培の限界は、土質にもよるが四年ぐらいであった。焼畑耕作の反当たり(一〇アール)収量はそば五斗(九〇リットル)・裸麦一石二斗(二一六リットル)・とうもろこし八斗(一四四リットル)・大豆・あずき二斗(三六リットル)が普通作の収量であった。
 焼畑耕作面積の推移については、確かな資料がないのではっきりしないが、大正末期より、昭和初期にかけての世界恐慌の時期における失業者救済事業として、開畑開田の奨励食糧増産・山林原野の開墾が行われた。大正末期から昭和十年ごろまでにかけて、みつまた耕作面積が多かったと推測することができる。
 戦後、自然条件による不作と、労働力と生産額との不つり合い、及び木材の値段が上がったことにより焼畑はしだいに植林化され昭和四十年を境に本郡にはその形態がなくなってしまった。

焼畑の輪作(昭和十年以前)

焼畑の輪作(昭和十年以前)


焼畑の輪作(昭和二十年以後)

焼畑の輪作(昭和二十年以後)


昭和二十五年の焼畑及び切替畑の面積

昭和二十五年の焼畑及び切替畑の面積