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面河村誌

一 作目の概要

 上浮穴郡における農産物の移り変わりを見るとき、必ずしも米麦中心とはいいがたい。もちろん主要作目が米麦であって、その生産に大いに力を注いできたことは確かである。しかし、上浮穴郡の立地条件を考えてみても、決して気候・風土が、米麦の生産に最も適しているとはいえない。例えば、江戸時代の米作にしても、収穫量の多い品種が作り出されていなかったうえに、狭い水田へ植えつけ、長い期間をかけて栽培するのであるから、労働力を費やす割には収穫は上がらなかったはずである。また、麦の栽培にしても、反当約一石という収穫高であり、これは県下で最下位であった。これらの例でわかるとおり、本郡の米麦の生産高は、極めて低かったのである。
 つまり、米麦のみに依存していたのでは、本郡の農民は、租税を納めることもできなかったであろうし、生活そのものができなかったに違いない。
 寛保の前後(一七四一)の記録と考えられる「久万山手鑑」によると、松山藩が課税の対象として指定していた本郡の産物は、米・茶・麻、真綿・縮藤・炭・漆・焔硝であったことがわかる。この記録は、本郡の農業が米麦中心でなかったことを物語っており、作目の歴史をひもとくとき、念頭に置いておかなければならないことである。すなわち、本郡の気候・風土に適した産業が、江戸時代には既に研究され始められていたことがうかがえるわけである。
 本郡の茶の生産の始まりは、寛永年間にその源を求めなければならない。初代松山藩主松平定行が、伊予に着任したのは、寛永十二年(一六三五)の七月であり、この松山藩主が、宇治から茶の実を取り寄せ、本郡に茶の生産を奨励した。これが、茶の生産の礎となり、紆余曲折を経て、今日銘茶を生産することができるようになったのである。
 また、麻や綿のような農産物と同様に、木炭や漆などの林産物も、上浮穴郡の農民にとっては、重要な物資であったことがうなずけるわけである。
 藩政時代において、もう一つ特筆すべきことがある。それは製紙業である。幕末の状況から推測すると、本郡の製紙業は、かなりの発展を遂げていたと思われる。
 本郡において製紙業が発達した理由として、自然条件に制約された農民の生活と、松山藩の政治とが考えられる。すなわち、本郡の立地条件からみて、農業に多くを期待することのできなかった農民は、気候・風土に適した楮の栽培に力を注ぎ、製紙業を発展させていったのである。一方松山藩では、租税として紙、特に御手山半紙の物納をさせていたようである。これは、松山の立花橋の近くに紙役所を設けていたことでも容易に理解することができる。租税として物納を許していたということは、それだけ松山藩が紙を重視していたということでもある。本郡の農民の生活と松山藩の政治上の問題とを併せて考えてみるときに、製紙業の発展には大きな意義があったことを認めないわけにはいかないのである。
 明治二十年に発行された「伊予温故録」には、上浮穴郡の物産として、「若櫨橡扁柏之類大豆・小豆・綾布・綾布藺・山葵・扇茄子・橘子・茶・甘卿・蕨粉・奉書紙・杉原紙・仙花紙・久主面河川鮎・露峰伊豫簾・板類・木材・植茸、大麻」が記録されている。この記録を通して、明治時代の農林産物のあらましが想像されよう。
 明治四十三年の「久万町郷土史」に、初めて各町村別の作物反別及び生産量が記録されている。これによって、米・麦・とうもろこし・大豆・小豆・えんどう・そらまめ・養蚕の様子がうかがえる。すなわち、大正・昭和と続く農業の原型ともいうべき一つのパターンが、明治時代において確立されたと見ても差し支えない。それまでの記録に見られなかった養蚕が導入されていることや、長産物の種類がだいたい同じであることなどを考え併せれば、うなずけるところである。
 さて、明治時代の急激な人口の増加は、食糧の不足を引き起こし、二十六年から三十年にかけて年平均五〇万石からの米を輸入しなければならなくなった。政府は、この食糧不足という現実に対処するため、勧農政策を打ち出し、それを強硬に推進していった。
 すなわち、米の増産と地主擁護の目的で、明治二十九年には日本勧業銀行法・農工銀行法を、さらに、三十二年には耕地整理法を公布して、相次いで農業に対する金融制度・助成措置を講じたのである。また、県立の農業試験場を設けて、品種改良・施肥の改善・病虫害の防除などについて研究させ、米の増収のために集約農法を奨励した。
 愛媛県では、米の増産のために、明治三十四年に害虫駆除予防規則を改正した県令を出し、常水苗代から短冊型の水をたたえない愛媛苗代への切り替えを強行している。また、三十八年には、県令でもって正条植えを強制し、警察官立ち会いのもとで田植えをさせるといった普及のために強硬手段をとったのである。大量の違反者を拘留したり、科料に処したりしたという記録さえ残っている。
 明治政府や愛媛県のこのような営農指導政策がやがて実を結び、江戸時代の二倍に近い米の生産量をあげることができるようになったのである。このようにして明治時代において、本郡の農業も殼物中心の農業に移っていったと考えられるのである。
 明治時代の農業形態が母胎となり、大正・昭和へと引き継がれていくわけであるが、昭和に入ると、米麦の生産量も一段と増加してきている。しかし、第一次世界大戦(大正三年)から昭和十五年ころまでは、日本の国策の重点は、なんといっても重化学工業の発展にあったから、農業政策は常に遅れをとり、そのため、農業所得も低下した。したがって、第一次産業の人口も減少していった。こうした中にあって、農業所得の増収を目指して、養蚕や換金作物の栽培が一時的に盛んになるが、昭和の恐慌にはとうてい打ち勝つすべもなかった。加えて、朝鮮や台湾からの米の移入によって、米価の暴落という二重三重の打撃を農民は受けたのである。
 第二次世界大戦(昭和十六年)のぼっ発により、農業も昭和の恐慌から脱け出し、他産業との不均衡成長ないしは所得の格差という問題も影をひそめてくるようになる。農政も戦時に対応できるように組み替えられ、食糧の充足に焦点が合わされることになる。つまり、穀物、特に米麦中心の農業に再び推移していったわけである。桑畑が麦畑となり、栗の木が切り倒されて陸稲が波打つようになったのもこのころのことである。
 昭和二十年八月には、終戦を迎えるが、食糧不足は解決せず、日本国民にとってはいちばん深刻な問題であった。したがって、戦時下の農業政策、つまり、米麦中心の政策が引き続きとられたのである。この間に、農民にとって最もいまわしかった地主制度が崩壊し、ほとんどの小作人が地主に取って替わることになる(昭和二十年十二月九日占領軍より示された「農地改革に関する覚書」が、地主制度を崩壌させたのである)。これによって、自分の田畑を耕作できるようになった農民の喜びはいかばかりであったろう。
 昭和二十五年に南北朝鮮の動乱が起こるが、これが一つの導火線となって、日本は再び工業国への道を歩み始めることになる。日本の復興はめざましく、昭和二十年代の後半ともなると、農業技術の進歩や農薬の普及、農業の機械化などによって、食糧は著しく増産されるようになる。
 食糧の確保という問題も、世界的な食糧の需給関係の緩和を背景に、我が国も、昭和三十年の米の大豊作を契機に、米の自給率がほぼ一〇〇%に達しており、米以外の農産物は外国から輸入することができるようになったことにより解決をみるに至った。
 昭和三十年代に入ると、日本の工業化はますます進み、日本の経済は高度成長を遂げるようになる。それに伴って、農業所得は低下し、他産業との格差が著しくなってきた。そのため、より多い所得を求めて他の産業への転職が相次ぎ、農村の過疎化、農業労働者の老齢化という深刻な問題が起こってくるのである。
 一方農村では、この深刻な問題に対処するため、商品化農業が研究され、次々に展開されていくのである。すなわち、明治時代から受け継がれてきた穀物、特に米麦中心の農業から脱皮して、換金作物の栽培に力点を置くようになってきたわけである。
 このような農業への転換にさらに拍車をかけたのが、米の生産調整を目的にして打ち出された減反政策であろう。米作りを抑制するという政策に、農民は少なからず打撃を受けたに違いないが、一方では、農林産物の栽培への刺激となったことも事実であろう。
 ともあれ、第二次世界大戦以後の食糧危機を脱した高冷地帯の農業生産は、さまざまな屈折を経て、流通市場との直結を目指して進展していったのである。また、今後の農業生産も、同じ方向を目指して進展し続けることであろうが、今後の世界の食糧、特に我が国の食糧自給を考えるとき、食糧生産の拠点である農村の根本的な再建が、国民的課題として検討されなくてはならないだろう。
 江戸時代から明治時代へ、第一次世界大戦から第二次世界大戦へ、戦後の混乱期から復興期へ、さらに、経済の高度成長期から自由経済体制へと移行していった百数十年の流れは、農業生産に対して間断なき刺激を与え、問題を投げかけてきた。