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面河村誌

(一) 普通作物 ①

 上浮穴郡の普通作物(穀類・豆類・そ菜類・果樹類)の栽培の移り変わりを見ると、明治末期から大正初期、昭和十五・六年ころ、二十七・八年ころ、三十六・七年ころ、さらに、四十六・七年ころに大きな変動があったことがわかる。もちろん、小さな変動は数多くあったわけであるが、作物の栽培の姿を歴史的にとらえてみると、以上五つに大別することができそうである。
 まず、明治末期から大正初期にかけての変動は、日清・日露の両戦争、さらには第一次世界大戦とのかかわりにおいてとらえてみる必要があろう。これまでは、日本はなんといっても農業立国であり、特に藩政時代は農業中心の産業であり、政治であったため、外国の列強と比べてみたとき、工業の劣勢、殊に武器・弾薬の弱さは否定することができなかった。そこで、日本国あげて富国強兵の政策を推進していったわけである。つまり、日本が工業国への道を足音高く着実に歩み始めたのである。そして、その結果が日清・日露の戦争につながり、農業政策の不振を招くことになる。さらにその傾向は第一次世界大戦へと結びついていく。
 不振に陥った農業も、昭和十五・六年ころになると、東南アジアをはじめ諸外国からの食糧の輸入が、第二次世界大戦のために途絶えることになり、食糧の増産体制のもとにその政策の転換を迫られることになる。
 第二次世界大戦中及び戦後は、日本国民にとっては飢餓に瀕した最悪の時代であった。したがって、山野を開墾し、田畑を作って食糧を増産することに力が注がれた。
 ところが、昭和二十七・八年ころになると食糧難時代をやっと乗り越え、農業立国から工業立国への兆しが見えてくるようになる。外国、特にアメリカからの農産物が容易に輸入できるようになると同時に、南北朝鮮の動乱が工業化への道をいっそう促すことになるのである。このころより、都会への人口流出や、転職者が現れ始め、農村の過疎化現象が起こってくる。
 昭和三十六・七年ころになると、日本の工業は長足の発展を遂げて、経済の高度成長をもたらす。この結果が、農村人口の急激な減少を生み出し、農業従事者の老齢化を引き起こしていく。したがって、開墾して作った田畑にはすぎやひのきが植えられ、しだいに耕作面積の減少をも招くことになるのである。また、アメリカからの大量の農産物の輸入の、日本の農業に与えた影響も大きく、従来の農業では生活ができにくくなり、このころから真剣に換金作物の栽培が研究されるようになる。
 昭和四十六・七年ころになると、農薬の普及や品種改良などによって、毎年水稲の豊作が続き、古米はもちろんのこと、古々米まで倉庫の中で山積みされる結果となり、政府はついに減反政策を打ち出して米の過剰生産を抑制することになる。米の生産調整のために休耕した田や、植林した田などには奨励金を出す仕組みであったために、あちこちで休耕田や植林地化した田を見かけるようになったのもこのころのことである。
 一方、米作りをしない田を利用して、トマト・キャベツなどのそ菜類の栽培が盛んになっていく。これは、換金作物の栽培によって農家の収入を増やし、生活を支えていこうとする農民の真剣な姿、土に生きようとする真摯な態度の現れにほかならない。
 以上、歴史的背景のもとに農業の変遷を概観してきたわけであるが、一言でいえば、昭和二十七・八年ころまでは、米麦の生産を中心とした農業形態であり、それ以後は、換金作物の栽培を採り入れた多角経営的な農業形態に変わってきたということができるだろう。穀類・豆類の栽培面積や収穫量の推移が、この傾向をはっきりと示している。また、近年とみに、そ菜の栽培が盛んになってきたが、そ菜類の移り変わりを見ても、農業形態や農家経営の移り変わりの一端をうかがうことができよう。
 1 穀 類
 林業王国の名にふさわしく、本村はもちろんのこと、上浮穴郡における林野の面積は非常に広い。したがって、田畑の耕作面積は極めて狭く、作物の収穫量も全体的に少ない。上浮穴郡の総面積は、七二四・一七平方キロもあるが、現在水田として利用されている面積は、約一一〇〇ヘクタールにすぎず、その割合は六六対一である。この例を見てもわかるように田畑の面積が非常に狭い。
 (1) 水 稲
 下のグラフは、水稲の耕作面積の推移を示したものである。
 このグラフでわかるとおり、水田の面積は、昭和三十五年から四十三年ころまでが最も広く、四十七年が最も狭い。これは、三十年代に入って毎年豊作が続き、古米はもちろんのこと古々米まで出る状態になったため、四十五年に政府が米の生産調整の目的で減反政策をとったことによるものである。
 その後、四十九年になると、我が国の食糧の自給率を引き上げる方向が打ち出され、減反政策を中止したために、わずかではあるが水田面積が増加した。しかし、水田に植樹したり、水田を畑にしたりしているため、四十年ころの水田面積に返すのは容易なことではない。
 上のグラフは、水稲の収穫高を示したものである。
 水稲の収穫高は、四十三年が最高である。これは天候に恵まれたことと、農薬や肥料が研究され普及したことによるものであり、全国的に史上空前の大豊作であるといわれた年である。
 二十九年ころまでは、畝一俵の米作りが農民の夢であった。畝一俵というのは、約一アールの水田で六〇キロの米を生産することを意味しているわけである。ところが、農薬や肥料の普及によって、農民の夢であった畝一依の米作りが実現し、それが毎年続くようになったのである。
 次に、参考までに水田の面積と水稲の収穫高を町村別に比較してみよう。
 次ページのグラフでわかるとおり、上浮穴郡の水田の面積の約半分は久万町が占めている。特に面河村と柳谷村は水田面積が狭く、したがって、食糧の生産は、いきおい畑作に頼らねばならなかったわけである。
 水稲の収穫量においても、上浮穴郡全体の生産量の半分以上を久万町が占めており、美川村と小田町の生産量はほぼ同じである。また、面河村と柳谷村の生産量もだいたい同じであるということができる。
 昭和二十年以前にも水田の面積には大きな変化はなかったものと思われるが、生産量は相当少なかったようである。現在では一〇アールの水田で六〇〇キロの生産は可能であるが、昭和二十年以前は四〇〇キロ程度であったということである。これは、農薬や肥料の普及に負うところが大きい。さらに、狭い耕地面積から、いかにたくさんの収量を上げる
かという絶対的な課題があってその研究の成果が品種改良として現れたことも見逃せない。
 ところで、米の生産は、水温や日照時間によって左右されやすい。品種を改良することによって、ある程度はそれらの条件を緩和することはできたが、決して完ぺきなものにはなっていない。したがって、谷間の多い本村などでは、他の町村に比べて日照時間が短く、水温も低いから米作に適しているとはいいがたい。
 (2) 裸 麦
 現在、麦飯を常食にしている家庭は極めて少なく、ほとんどの家庭が、米飯中心の食生活である。ところが、昭和二十九・三十年ころまでは麦飯が常食で、米飯をたびたび食べることはできなかった。祝祭日や休日に米飯の味をかみしめ、早く米飯が常食になればと願っていたものである。 
 (3) 小 麦
 資料によると、本村における小麦の作付面積は、昭和三十五年が最も広く、その後は年を追うごとに減少している。また収穫量では昭和三十四年が最高で、これも作付面積と同じように年とともに減産の一途をたどっている。
 ここで、昭和三十八年の収穫量について考えてみよう。作付面積は一七ヘクタールあるにもかかわらず、収穫量は皆無である。これは豪雪の影響によるものである。もちろん、小麦ばかりでなく裸麦や大麦も同じように大きな被害を受けている。この年は、三月半ばになっても雪が残っていたという状態で、麦類が最もよく生長する三月が寒かったために、生育が極めて悪かったわけである。
 この影響を受けたからでもあろうが、三十九年から作付面積も急激に減っていった。もちろん、豪雪による被害が作付面積の減少の絶対的な原因ではないが、農民に及ぼした心理的影響を否定することはできない。
 小麦を含めてすべての麦類の減産の最も大きな要因は、なんといっても、食糧の輸入の増大と、日本の産業構造の変革であろう。
 ここで参考までに、町村別に作付面積と収穫量の比較を「中国四国農政局愛媛統計情報事務所久万出張所資料」に基づいて見てみよう。それによると、平均して小田町が多く、次いで久万町、美川村の順になっている。柳谷村と面河村は、面積・収量ともに大差はないがいずれも少ない。これは地理的条件によるものである。この両村には山村が多く、極めて畑が少ないこと。畑があっても焼畑や段々畑で麦作りに適していないこと。さらに、労働が厳しい上に労働力の少ないことが、その主な原因として考えられる。
 小田町は、昔から「小田うどん」で有名であったが、それだけに、小麦の需要量も多かったわけであり、その生産にも力を入れてきたということができよう。したがって、小麦の生産が他町村に比べて多いのは当然のことである。
 現在の日本人の食生活を見るとき、うどん・そうめん・ラーメンなどのめん類・パン類・菓子類と、小麦の摂取量の極めて多いことに気づく。したがって、私たちの食生活もその例外ではなく、ふんだんに小麦を使っている。小麦の需要率が年ごとに高まりながら、その生産は反比例して低下している。
 昭和四十年前後までは、ほとんどの農家が最低自家消費分だけは栽培していたが、現在ではアメリカから輸入した小麦粉を購入して使用している。また、小中学校の給食用パンの原料にしても、そのほとんどは、アメリカから輸入されたものである。
 狭い畑に高い肥料代をつぎ込んで、しかも、苦しい労働に耐えて小麦を栽培するより、輸入された小麦を購入するほうがはるかに経済的であってみれば、小麦の生産への意欲もわいてこないであろう。また、どの町村も過疎化の洗礼を受けて、農業人口が急激に減少してきており、小麦の栽培にまで手が回らないのが実状でもある。
 また、昭和二十五年ころまでは、しょう油を作っていた農家も数多く見受けられたが、流通機構の整備拡充に伴い、市販されているものを容易に手に入れることができるようになったため、しょう油作りは完全に姿を消していった。さらには、夏になると「みそこうじ」を作り、自家消費のための一年分のみそを作り込んでいたものであるが、昭和四十年代に入ると市販のものに頼る農家が増えてきた。現在では、久万農協が中心となってあっせんしたみそこうじを買い入れて作り込むといった農家が、町や村の至る所で見受けられるようになった。つまり、どの農家も、小麦や裸麦を必要に応じて購入するようになったのである。これらの諸条件が、麦類の減産に拍車をかけたことも見逃せない事実である。
 (4) とうもろこし
 とうもろこしの作付面積及び収穫量については、昭和三十五年以前の資料が乏しいため、正確な判断のもとに結論を導くことは容易なことではない。しかし、久万町・美川村・小田町などの資料によると、面積では二十九年が最も広く、収穫量では三十一年が最高となっている。それ以後は、作付面積、収穫量とも徐々に減少してきており、秋ともなると各農家で見られたとうもろこしの金びょうぶの風物詩も、現在ではほとんど見られなくなってしまった。したがって、とうもろこしの栽培では、昭和三十年前後が一つの大きな転換期になったといえそうである。
 三十年前後といえば、食糧難時代を乗り切り、食糧も豊富になって、ある程度自由に手に入り始めたころであり、また、日本が本格的に工業化への道を歩み始めたころでもある。こう考えてくると、とうもろこしの栽培は、食糧事情や産業構造の変化によって左右されてきたといっても間違いなさそうである。端的にいえば、食糧事情が好転の兆しを見せ始めると、とうもろこしは減少の道をたどり始めるということである。
 米麦の絶対量が不足していた第二次世界大戦中、及びその前後は、「とうきび飯」を食べていた。むしろ、水田の少ない農家や、米麦の配給を受けていた家庭は、とうもろこしの中に米を混ぜて食べていたといったほうが当を得ているかもしれない。
 いずれにしても、当時は食糧を輸入することは全くできず、自給自足を余儀なくされていたわけであり、それだけに、食糧の絶対量が過度に不足していたのである。したがって、主食の不足を補うためには、とうもろこしの栽培が必要不可欠の条件だったわけである。
 また、菓子などのない時代には、かきもち・はったい粉などをつくり、おやつ代わりに子供に与えていたものである。つまり、それだけとうもろこしの利用価値が高かったといえるわけであり、栽培の必要があったということである。
 ところが、食糧が潤沢になり、菓子類が豊富になってくると、とうもろこしの利用価値は半減してくることになる。そこに、とうもろこしが減少していった第一の原因を求めることができよう。
 さらに、この傾向に拍車をかけたのが、家畜、特に牛馬の減少である。とうもろこしは昔から家畜の飼料として、たいへん重視されてきた。その家畜が、昭和三十年代に入ると漸次減少していったのであるから、当然とうもろこしの需要も低下してきたわけである。
 牛や馬は、農耕用として、また、荷物の運搬用として、農家にとっては欠かすことのできない家畜であった。したがって、家畜の飼料としてとうもろこしの栽培は欠かすことができなかったのである。
 ところが、農業機械の著しい発展と、自動車のめざましい普及は、牛馬を必要としなくなり、しだいにその存在価値を認めなくなった。そこで、農家は次々に牛馬を手放していったのである。このような牛馬の減少が、とうもろこしの栽培に大きな打撃を与え、減産の道を早めさせたことも否定できない事実である。
 次に、未成熟とうもろこし、つまり、柔らかいうちに焼いて食べるとうもろこしには、この推論はあてはまりにくい。
 未成熱とうもろこしは、その減少傾向にしても、作付面積、収穫量ともに極めて緩やかである。これは、とうもろこしの芳香や甘さのある味覚は格別であり、昔から人々に賞味され続け、今日に至っているということの証左でもある。したがって、急激な減少傾向を示さなかったものと考えられる。
 昭和四十七・八年ころまでは減反・減産の傾向が続いているが、これは、農村人口の過疎化に伴った現象、つまり、未成熟のとうもろこしを食べる人口の減少によるものである。また、このころまでは、未成熟のとうもろこしを商品化するために栽培するという農家はほとんどなかった。自家消費用として栽培していたにすぎなかったのである。
 ところが、四十八年ころより、未成熟のとうもろこしを商品化しようという兆しが見え始め、四十九年にはそれが実行に移されていった。四十九年に作付面積及び収穫量が増えたのは、その現れにほかならない。
 観光ブームに乗って、来郡する観光客に売ったり、松山方面へ出荷したりし始めたのである。
 観光ブームの波に乗って、未成熟のとうもろこしの商品化を図ったり、加工食料品としてその販路を開拓したりすることによって、とうもろこしの需要を高めることは可能である。それだけに、今後の栽培に期待がかけられているところである。
 ところで、とうもろこしの栽培は、天候に左右されやすいという欠陥がある。特に台風には弱い。
 昭和三十五年から四十九年までの十五年間で、作付面積と収穫量を比較検討してみて、著しく収穫量が減少している年には、必ず台風があったと判断してもまず間違いはない。また、干ばつによる被害も無視できない。
 台風の時期を避けるようにして栽培することは非常に難しいが、品種改良によって収穫時期を調節するとか、風や干ばつに強いものを作り出していくとかいった研究が、今後の課題であろう。
 2 豆 類
 本村のみならず上浮穴郡では、だいずやあずきは相当量生産されていたが、その他の豆類は、自家消費用に各員家でわずかに栽培されていたにすぎなかった。畑の隅を利用して作ったり、間作として栽培したりしていたのである。もちろん、現在でもその程度の栽培はなされている。地理的、気候的諸条件の制約を受けて、大々的に商品化していくことは難しく、生産量の伸びは余り期待できない。
 そこで、ここでは、だいずとあずきについて触れてみることにする。
 (1) だいず
 だいずの作付面積と収穫高の資料は、他町村については昭和二十五年からあるが、本村は三十四年からしかないので、それ以前のことは不明である。資料によると、昭和二十九年が久万町・小田町・美川村では、作付面積も収穫量もともに、最高を示している。したがって、全郡的に二十九年が作付面積・収穫量ともに最高であったといえそうである。
 だいずは、みそ・しょう油・豆腐などの原料として欠くことのできないものである。そこで、その需要にこたえるために、水田の畦はもちろんのこと、山畑にも、さらには、農作物の間にも植えつけて栽培していたものである。特に、本郡のだいずの生産量の五〇%は、水田の畦で栽培していたといわれている。
 だいずの生産量を高めるために、研究が重ねられ、次々に新しい品種が誕生した。大正十三年には「伊予大豆」が奨励品種となり、一般に普及した。そして、昭和十三年には「円波里」という品種が奨励されるようになった。十四・五年ころになると、「玉錦」が奨励品種の指定を受けた。昭和三十三年には、愛媛県農業試験場久万分場で、在来種より選抜した品種「久万大豆」が生まれた。そして、これは奨励品種としての栄誉を受け、郡内に広くいき渡った。四十一年になると「アキヨシ」というだいずが奨励品種となった。このように、より質のよい、より多く収穫のできるだいずの栽培を目指して、研究機関と農家が一体となって努力を続けてきたのである。その成果が実って、昭和二十六・七年ころまでは、それぞれの業者がだいずを買いにくるほどたくさん生産されていた。上浮穴郡のだいずは味がよく、業者はもちろんのこと、一般の消費者にもたいへん喜ばれていた。   
 ところが、二十八・九年ころから、アメリカから大量のだいずを輸入し始めたため、その打撃を受けてしだいに減産の傾向を示し始めた。現在では、自家用にわずかに栽培している程度で、商品として出荷したりすることはほとんどない。
 また各農家では、しょう油やみそをつくり、調味料の自給自足の体制をとっていた時期もあったが、しだいにしょう油やみそをつくる家庭も減り、今ではほとんどの家庭が市販されているものを利用するようになった。これらも、だいずの減産の一因をなしているであろう。
 盆や正月、地方祭などがやってくると、農家ではよく豆腐づくりの光景を見かけたものであるが、そのような農民の素朴な姿に接することはできなくなってしまった。
 さらに、だいずの減産の原因を、牛馬の減少に求めることもできよう。特に、肉牛として飼育する場合、だいずをすりばちですって、それを牛に飲ませ、肥育していたものである。つまり、牛馬の飼料としてだいずを利用していた家庭も多かったのである。牛馬の著しい減少は、だいずの需要度を低下させたわけである。
 昭和四十七・八・九年の三か年の統計から推定すると、今後は、作付面積・収穫量ともに大幅な減少はなく、現状で推移すると考えられる。
 (2) あずき
 「赤いダイヤ」という言葉が、昭和二十年前後から三十年ころまでよく使われていた。これは、あずきを指した言葉であるが、この言葉が示すとおり、あずきはたいへん高価な、しかも、全国的にみて生産高の少ない農産物であった。
 したがって、上浮穴郡で生産されたあずきは、高価で売買され、本郡の農家にとっては、たいせつな収入源の一つであった。あずきの供給が、需要に追いつかないところに、高価を呼んだ原因があったわけである。
 そこで、郡内の各農家では、あずきの生産量を高めるために、焼き畑にまいたり、山畑を利用して栽培したりもした。
 豆類は、根りゅう菌によって地中の窒素をとって生長していく。したがって、窒素などの肥料を施さなくても、他の農産物よりよく育つ。この性質を利用して、あずきの生産を高めていったわけである。また、他の農産物の間にあずきをまいて作ったり、植林した場合、すぎやひのきの間を利用して栽培したりして、収穫量を増すために力を注いだものである。
 ところが、昭和二十七・八年ころを境にして、あずきの生産も衰退の道をたどり始めたのである。その主な理由として、二十五年から二十八年にかけての朝鮮動乱によって、日本の産業・経済が著しく復興したために、第一次産業の人口がしだいに減少していったこと、つまり、農山村における過疎化現象によって労働力が低下したこと、さらに、三十二・三年ころから見られる経済の高度成長が、過疎化をいっそう促したこと、また、貿易の拡大によって農産物の輸入が大幅に増加したことなどが考えられよう。三十年ころには、日本の経済も一時的に不況に見舞われるが、特にその影響を受けたのは農山村であった。この不況は、他の産業従事者との所得の格差をさらに拡げていった。したがって、第一次産業より所得の多い他産業への転職・就労が相次いだわけである。
 昭和四十七年が、作付面積では最低を記録しており、収穫量も少ない。換金作物として他の作物に比べて遜色がないだけに、今後の生産の伸びに期待されるところである。
 3 そ菜類
 (1) トマト
 トマトは、古くから自家用に栽培されてきたものである。特定の人が、商品化を目指して栽培した事実はあるが、今日のように大規模に生産されたことはなかった。
 昭和四十三年から四十五年まで、農協が中心となって試験栽培を行い、良好な結果を得たことにより、販売網の確立と、一般農家への指導奨励に力を入れ、四十六年から大規模な生産計画に基づいて、その栽培が始められた。
 前のグラフを見てわかるように、トマトの栽培は、年を追って増加している。特に、普及所などの指導機関の助言指導によって品質も極めてよく、また収穫量も増してきており、現在では、大阪の市場などで「久万のトマト」という名前で通るほどになっている。
 収益面では、物価上昇の影響もあるが、本郡の統計は、昭和四十八年は一億二〇〇〇万円、四十九年が約二億一六〇〇万円、五十年は約一億八六〇〇万円となっている。
 これを一戸当たりの平均でみると、四十九年は約九九万円、五十年は約七六万円となっている。地区によっては、平均一戸当たりの収益が一〇〇万円を超えているところもある。
 このように収益の多い換金作物の栽培は、いまだかってなかったのではあるまいか。
 4 いも類
 米麦の生産の少なかった上浮穴郡では、芋類は欠かすことのできない作物であった。特に、藩制時代には、年貢の課税率が高かったため、時としていも類は主食の座にさえついたほどである。また、明治以後においても、年貢を納入したあとの食生活を支えるために、大きな役割を果たしてきた。昭和十六年に始まった第二次世界大戦から終戦後の二十五年ころまでの約一〇年間は、諸外国からの食糧の輸入が全く途絶え、文字どおりの食糧難時代であった。この時期においても、米麦に次いでたいせつなものであったことはいうまでもない。したがって、単なる副食としての食料だけでなく、主食に次ぐ食糧であったといっても決して間違いではない。
 それだけに、いも類の生産にも力が注がれたわけである。山を切り開き、荒地を耕して土地の狭さ、広さにかかわりなく植え付けていたものである。
 もちろん、いも類の中には、副食としてのみ栽培されてきたものもあるが、寒暑に気をつけておれば、一年間は保存が可能であるところから、どの農家でも保存食としても重視してきた。
 (1) じゃがいも
 じゃがいもの生産地といえば、なんといっても北海道を思い浮かべる。しかし、県内では、上浮穴郡がじゃがいもの生産地として知られている。
 じゃがいもは、寒冷地でできる作物であり、北海道の気候がじゃがいもの栽培に適していることは周知のとおりである。
 本郡は、夏分でも比較的気温が低く、どちらかといえば寒冷地に属している。したがって本郡の気候がじゃがいもの栽培に適しているため、品質のよいじゃがいもが生産されるわけである。
 じゃがいもは、本部では古くから主食を支えるたいせつな食料として栽培されてきた。特に、昭和二十年後、つまり、第二次世界大戦後は、戦時中以上の食糧難時代で、日本国民はその日の食糧に事を欠き、生き抜くことに精いっぱいであった。その窮状を救うために、占領軍の監督のもとに、強制割り当てによるじゃがいもの供出がなされたほどである。供出の対象となった農産物は、米・麦・じゃがいも・さつまいもであったわけである。したがって、郡内の各町村とも、米麦の生産はもちろんのこと、じゃがいもの栽培にも力を注いだのである。その結果、山野を開墾してじゃがいもを植え付けたり、そ菜類の栽培面積を減らして作付けしたりする光景が、農村のいたるところで見受けられたものである。
 昭和二十三年以前の資料がないため、即断することはできないが、戦時中、終戦後の状況から推察して、昭和二十年前後に栽培面積が急激に増加したものと思われる。そして、二十三年を境にして二十七年まで徐々にではあるが減少してきている。ところが、二十八年より増加傾向を示し始め、四十二・三年ころまで一進一退の状態が続く。それ以後は急激に減少してきている。 
 ところで、生産高の面では、三十八年が急激に減産になっている。作付面積は逆に増加しているのである。これは、近年にないといわれた豪雪の影響によるものであり、じゃがいもの植え付けが相当遅れたことに原因がある。
 本郡では、明治以前には「地いも」といわれる在来種が栽培されていた。明治時代に入ってから、北海道より「男爵」と呼ばれる品種が導入され、一段と収穫量が増加した。
 昭和十五・六年ころになると、「紅丸」という品種が姿を現して、一時的に普及した。昭和十五年に、愛媛県農業試験場久万分場では、「農林一号」の試験栽培を行っている。この結果は極めて良好であった。そのため、この品種が奨励され、昭和十八・九年ころから全郡的に普及し、じゃがいもの主流をなした。
 (2) さつまいも
 さつまいもも、じゃがいもと同様に、米麦の主食を補うたいせつな食料として、古くから栽培されてきた。地域によっては「りゅうきゅういも」といったり、「からいも」と呼んだりしているが、本郡の農民に昔から親しまれてきたものである。
 その理由として上げられることは、(ア)さつまいもをゆがいて干して作った「ひがしやま」が、子供はもちろんのこと、大人にとってもかっこうのおやつであったこと、(イ)菓子類の少ない時代には、各農家ではさつまいもを原料としていわゆる「いもあめ」を作っていたこと、(ウ)さつまいもを生のまま切って干し、それを粉にして、休祭日などに「かんころもち」を作っていたこと、(エ)さつまいもを原料として焼酒を作っていたこと、(オ)秋の稲の収穫時ともなると、さつまいもをふかしておやつにしていたこと、(カ)「いもがゆ」「いも飯」などには不可欠の材料であったことなどである。
 このように、さつまいもの用途は極めて多く、食糧不足を補うばかりでなく、嗜好的な食料としても愛用されてきたのである。
 年貢米をたくさん納めていた江戸時代や、小作のために地主に年貢米を納入していた明治・大正・昭和二十年までの時代には、農民にとっては、さつまいももなくてはならない食料であったことはいうまでもない。
 特に、昭和十六年に起こった第二次世界大戦は、極度の食糧不足をきたし、二十年の終戦後も数年間は深刻な食糧難時代が続いた。したがって、米麦の不足を補うために、さつまいもの生産に力を入れた。この食糧危機を乗り切るために、終戦後、占領軍の命令によってさつまいもを強制的に供出されたこともある。
 このような状況から判断して、さつまいもの作付面積も、また、生産高も、昭和二十年前後がピークであったろうと考えられる。
 昭和二十三年以降の資料によると、作付面積も、また、生産高も二十四年がピークになっているが、それ以後は若干の増減を見ることができるものの全体的には減反、減産の一途をたどっている。
 これは、なんといっても食糧事情の好転によるものである。主食を補う必要がなくなったこと、菓子類の副食物を自由に手に入れることができるようになったことにより、過去にもっていた嗜好品的な性格が薄れたこと、さらには、過疎化によって、人口の絶対数が減少したこと、くり・たばこなどの換金作物の栽培に力を注ぎだしたこと、養蚕のため桑園化したことなどの諸条件が、減反・減産を招いたものと考えられる。
 さつまいもは、粘土質の多い、肥料分の少ない土壌でも栽培できるから、容易に作付面積を広げることもできれば、生産量を増すこともできる。その反面、寒さに比較的弱く、気候に左右されやすいという欠点もある。したがって、戦時中及び終戦後は、山野を切り開いてよく救培したが、作付面積と生産高は必ずしも比例してはいない。
 現在では、さつまいもも、自家消費のために栽培される程度で、栽培農家も少なくなってきた。

面河村における水稲の耕作面積の推移

面河村における水稲の耕作面積の推移


水稲収穫高

水稲収穫高


上浮穴郡の水田の面積と収穫高の比較

上浮穴郡の水田の面積と収穫高の比較


面河村における年次別水稲の耕作面積及び収穫高

面河村における年次別水稲の耕作面積及び収穫高


面河村における年次別裸麦の作付面積及び収穫高

面河村における年次別裸麦の作付面積及び収穫高


年次別小麦の作付面積及び収穫高

年次別小麦の作付面積及び収穫高


小麦作付面積(ha)

小麦作付面積(ha)


小麦収穫高(t)

小麦収穫高(t)


成熟とうもろこしの作付面積及び収穫高

成熟とうもろこしの作付面積及び収穫高


成熟とうもろこし作付面積

成熟とうもろこし作付面積