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面河村誌

一 面河渓の観光開発

 面河渓が文書として知られたのは、天明のころ(一二八一~八八)松山藩士加藤勘介の詩によるものとされる。
 松山市港町圓光寺明月上人(書家・寛永九年七月寂)の遺筆によれば「松山藩山林奉行職加藤勘介が面子山(当時は面子山と記す)御用に参らせ候節
  白雲のたなびく峯にきて見れば
        伊予の高嶺の麓なりけり
と詠まれ候の一章面白き事に感じ入候」というのがありこれが最古のものとなっている。
 『加藤勘介、面子山之御用に被参候節、山中之詠吟数首有之候、中にも白雲農靉靆峰丹来亭見礼波伊予濃高根乃麓那里計里と詠せられ一章、面白事と感入候』(原文)
 しかし、せっかくの加藤勘介の名吟も効なく、面河は山深く秘められたままで長く知る人もなかった。
 その後、明治三十年ごろ、海南新聞に「面河川溯江の記」が出ており、同四十年ごろには、面河村(杣川村)に長く教職についていた故石丸富太郎が小波と号して紙上に大いに宣伝もし、また、各種有名人を招いて四季の探勝に努 めたため、ようやく世人の注目するところとなるに至った。      
  石丸富太郎
 明治十九年(一八八六)一月四日、温泉郡重信町に生まる。十四歳で上浮穴郡面河村大成小学校教師として勤め、後、愛媛師範学校に入学、明治三十八年(一九〇五)三月優秀な成績で卒業。杣川村渋草尋常小学校の訓導兼校長となる。
 富太郎は、子供たちの教育に精魂を打ち込むかたわら、すぐれた面河の景色を広く世間に知らせようと考え、ペンネームを「小波」とし、当時の海南新聞に投稿して、面河渓の紹介を試みた。そのころ、同紙の編集長であった田中蛙堂をたびたび訪ね、面河渓のすばらしさを説明して熱心な調査を促した。
 蛙堂は、彼の熱心さに動かされ、当時の松山地方の優れた詩人・画家・登山家・写真家などを誘い、九人で面河を訪れた。時に明治四十二年(一九〇九)十月二十日のことである。
 当時はバスとてなく、黒森峠を越え、笠方を通り、渋草、若山を経ての徒歩コースであった。
 地元では、面河始まって以来の観光団とあって大がかりな歓迎会を計画、一行の渋草到着は夜中であったが、のろしを上げ、音楽会を催すなどして、当時の村長、小椋和太郎はじめ村民総出で歓迎したという。
 季節は、十月末のこととて、紅葉の時は既に過ぎていたが、次々現れる谷川のすばらしいながめに、一行は目を見張り、ため息をつくばかりだったという。
 当時は、道など全くなく、がけをよじ、岩から岩へ跳び渡っての観光であったが、新しい景観が眼前に開けるたびに空船橋や蓬莱渓と名をつけ、今にその名が残っている。
 この時の紀行文は、俳句や詩、スケッチや写真などとともに、十数回にわたって海南新聞をにぎわせた。これによって初めて面河渓のすばらしさが世に知らされたのである。それからぼつぼつと観光客が面河渓を訪れるようになった。
 富太郎は、その後、教職を去り、海南新聞の記者になったが、終生、面河渓の宣伝に努力を惜しまなかった。
  昭和二十四年(一九四九)九月二十四日没、享年六十四歳
  顕彰碑は昭和四十九年(一九七四)五月、浅海蘇山揮毫により石丸富太郎翁頌徳碑として面河関門に建てられたが惜しくも流水のため現在は流出して不明
  (「上浮穴郡に光をかかげた人々」より)
 海南新聞『面河探勝団』
  「海南新聞」の明治四十二年十一月二十一日号に「面河探勝団」の記事として次のことが記載された。
   面河探勝団
  石鎚高峰の南麓に位せる面河(オモゴ)の大森林は由来怪勝奇景に富むの地なるも交通不便なるを所以を以って未だ世に知られざるを遺憾とし我が同人は茲に同趣味の士を誘ふて此秘勝を探らんとす団員氏名左の如し
  ○宮脇 鯉渓君  ○森田雷死久君  ○牧野 菱江君 
  ○河東澹太郎君  ○富田陸三郎君  ○原田 栄君
  ○佐賀テツヤ君  ○松本 剣巌君  ○田中 蛙堂君  其 他
  而して一行は二十日正午を以って勇気凛々東に向って発足せり探勝予定概ね左の如し
  二十日 上浮穴郡杣川村渋草宿泊
  二一日 大成風穴視察若山宿泊
  二二日 面河探勝渋草帰泊
  二三日 渋草発河ノ内観瀑の後帰松
 明治四十二年十一月二十五日には、「面河探勝団帰松」の記事として次のことが載せられた。
  面河探勝団帰松
  宮脇鯉渓、森田雷死久、牧野菱江、原田栄、河東澹太郎、富田陸三郎、佐賀テツヤ、松本剣巌、田中蛙堂の九名(外二三子加はる筈なりしも事故中止)を以て組織したる面河探勝団は予定の如く廿日午後一時三分立花発の汽車にて横河原に到り途中河ノ内方面の勝地を探り午後六時廿分河ノ内出発黒森峠を経て夜半十二時杣川村大字杣野字渋草着廿一日は大成風穴視察の上同村大字大味川字若山着、廿二日面河の勝を極て渋草に引返し、廿三日午前十時渋草出発午後五時卅分横河原着、同七時立花駅に帰り草鞋穿きの儘豊坂町亀ノ井に入り持帰りたる兎、山芋を料らせて慰労宴会を開き十時過ぎ全く散会したり其探勝記事は更めて記載すべし因に杣川村各部落に於ける有志諸君の厚意を謝す。(一記者)
 なお、一行の探勝の様子や地元の歓迎ぶりなどについては、松本剣巌の「面河探勝の記」として五回にわたり「海南新聞」に連載され、また、佐賀徹也の版画四回・森田雷死久の「面河探勝句録」四回、宮脇鯉渓の漢詩二回も掲城された。記事一覧は次のとおり。
 明治42年                       
  11月26日「面河探勝の記」(一)剣巌生              
  11月27日「面河探勝の記」(二)剣巌生              
       テツヤ絵「渋草の里」            
  11月28日「面河探勝の記」(三)剣巌生              
       テツヤ絵「大成の里」               
  11月30日「面河探勝句録」(一)森田雷死久          
       テツヤ絵「ひと本獄」              
  12月1日「面河探勝の記」(四)剣巌生            
      「面河探勝句録」(二)森田雷死久           
       テツヤ絵「関門」                  
  12月2日「面河探勝句録」(三)森田雷死久           
  12月3日「面河探勝の記」(五)剣巌生
  12月4日「面河探勝句録」(四)森田雷死久
  12月15日・12月23日 宮脇鯉渓漢詩
  以下、森田雷死久「面河探勝句録」より
   面河探勝句録 (一) 雷死久
  川の内より黒森峠をさして上る。鯉渓翁空腹と老体に堪へて履々落悟せんとす。剣巌是れを助けつつ上る。
   薬草にや匂へり夜道草踏めば
  山の九合目に至れば中天を焦がすの焚火、空山に響く萬歳の声、余等を迎ふる一行と知れり。
   虎杖の枯木も投ず榾火哉
  娼の一人住まへる峠の茶店に憩ふこと暫時、茶をすする者菓子を喰ふ者、渇猖の飲、飢蛭の徒に似たり。
   慎みもなき鰒の徒と疑へり
   種子粟に鼠通へる榾火哉
  楽隊に迎へられて笠方に着す。休憩所に入りて茶菓の饗応を受く
   川千鳥鳴くもあらんにろうがまし
   立鉢に二椀重ねぬ今年蕎麦
  夜半渋草に着す。鞘橋の傍り、月を宿せる枯木立の下、渓流を裏に緑山を前にせる一草舎は、余等一行の宿舎にしてあかあかと灯ともせり。
   御馳走ふる祭の行灯灯氷る
   畑の餘地鶏垣もして柿干せり
   あめの味主が避暑の話かな
   茶の花も見しか茶所茶に誇る
   面河探勝句録 (二) 雷死久
  渋草より大成に行く途上杖を噛む寸餘の霜柱、黎を掛けたる二、三の茅茨、趣味の津々たるものあり。
   雪折の竹も尚ある霜戚哉
   兎飛ぶ黍刈捨ての椿畑
   木立道来て掛け豆の兎追ふ
  大成の有志迎旗を翻へし一行を迎ふ。宿に昼飯の饗応を受く、台に上るものは、兎の丸煮、蕪の風呂吹など、易牙の調も啻ならざるものあり。
   風呂吹に萸菜の一血も添へに鳧
   迎旗立つる桂古木の落葉かな
   茶の花に聟見せん宿の美人あり
  同所に淡路守の墓と称して小さき石標あり。里人之れを荒縄もて縛し諸願を祈ると
   緑結ぶ木も植へて若葉落葉せん
   面河探勝句録 (三) 雷死久
  同地の名物豊年踊を見る。黛ひ厚き小娘のさげ髪に慰斗を燃ひて結 ゆるが如き襦袢の振袖、扇打ち振りて踊る様のかげに、優美なる薪負ふ乙女の業とは思はれず。
   色合せ草花の数を並べけり
   踊子にまじる新酒に酔ふてあり
  歓迎会席上
   大器より袖釜にそそぐ新酒哉
   壮語せば天狗が真似す榾火哉
   霜月のあめ脂なき榾火哉
  一行結束して面河の谷に入る。途上三々俉の家あり。
   一軒家よべの踊の朝寝にや
   竹の屋根枯木の霜の雫散る
  杖を伐りて峻嶮を上る。数十丁にして風穴に至る。此処蚕種を貯ふるに冷度、関西一と称せらる。
  水無月の雪に猿の来て眠る
   杖に選ぶ木は黒文字の落葉して
 若山の青年団は法螺を吹き鳴らして一行を迎へり。
 枯木まばら枯尾花山法螺響く
  若山の宿舎に着し草畦の紐も解かざるに、先づ落ち付きの饗応として人形回し(串芋)唐黍の麺に、四山の暮色を迎ぎて渋茶をすするなど趣味感興且つ口腹為に充てり。
   榾の煙眼にしむ宿や人形廻し
  麪やけふも時雨るる山宿に
   面河探勝句録 四 雷死久
△面河十五勝
   錦木の瀑
 滝の影空に映れる銀河哉
   仙洞巌
 仙人の意気に飛びける※黄蜂哉
          ※「上浮郡案内」では「蝶」
   関門
  右顧の滝左顧の鴨淵紅葉散る
   空船橋
  梯子よじて又渡る橋胆寒し
   竜眠滑
  帰り咲く花に盃を流しけり
   孤松巌
  去るを惜みて帰んなん詩に日短かき
   王母泉
  薬降るや仙を盟ひし跡ならん
   方壹霊
  雲消ゆる虚空に鳴ける時鳥
   間湖弓
  淵の渦落木に鴛鴦のかくれけり
   流桃淵
  宿り木の巨幹も枯れて冬の山
   烏帽子峰
  天門を覗けは雲耶餘花白し
   如来の瀑
  狂ひ咲く躑躅の紅に小春哉
   蟾除雪
  木の実拾へば山霊蟇のとがめあり
   彩葉岩
  猿鳴きて寒山の空木の葉飛ぶ
   八公巌
  幽邃之境一行目八仙(即興)
  蛙堂水を波り剣巌岩に踞す
 〔註〕森田雷死久=明治五年(一八七二)伊予郡恵久美(現松前町)に生まれる。幼名愛次郎、木名貫了。少年時代郡中谷上山宝珠院に入る。後、伊予郡南山崎村真城寺住職となる。一時還俗の後、温泉郡潮見村(現松山市)平田宝珠院住職となる。大正五年六月没、享年四十三歳。その間子規門に属し、松風会再興に力を尽くす。地方俳壇の隆盛に功のあった人。後、碧悟桐の新傾向俳句に共鳴して作句した。
 「海南新聞」の「面河探勝団」より、神野昭著「久万高原の文学と伝承」による。
面河観光開発者としての中川梅吉
 中川梅吉は、明治十三年(一八八〇)四月一日、面河村大味川若山に
生まれた。
 貧しい百姓の子として生まれた梅吉は、本を買うことも思うにまかせず、人から借りた本をむさぼるように読んだという。こうした努力は、梅吉の生涯の力となった。
 明治三十五年(一九〇二)若山に一軒の旅館を建てた。梅吉が二十二歳の時である。
 梅吉が旅館を建てた当時は、ときたま訪れる行商人や富山の薬売りくらいであった。観光客が訪れるようになったのは、大正十年(一九二一)ころからである。
 児童文学者の巌谷小波も、面河渓を訪れ宿泊した。梅吉が建てた旅館は、「紅緑館」とつけられた。名は巌谷小波がつけ、直筆による大看板が掲げられた。のち歌人、吉井勇が看板の裏へ「面河なる五色河原の朝霧に我れたちぬれてものをこそ思え」の一首をしたためた。(これを原本にして、現在、関門ホテルの玄関先にこの歌碑がある。)
 梅吉は、亀腹旅館(現在、伊予鉄渓泉亭)も経営した。
 梅吉は、裸一貫から雑貨商を始めとして旅館経営へと将来を展望す眼をもち、面河観光開発の草分けとして面河発展に寄与した功績は大きい。学務委員、村会議員などの要職も務めたが、昭和八年(一九三三)八月十八日、五十三歳の若さで世を去った。
 紅緑館は、昭和二十五年(一九五〇)関門に移されたが、昭和三十五年(一九六〇)火災によって、全焼し、家宝の看板も、名士が残した多くの書画とも灰となった。二代目、安市、三代目、鬼子太郎(現二十六代村長)によって再建され現代は関門ホテルとしてユースホステルの機能も果たしている。
            (「上浮穴郡に光をかかげた人々」による)
 その後、大正時代には菅広綱村長(第十三代村長)、昭和になっては重見丈太郎村長(第十四、十七、二十一、二十三代村長)、中川鬼子太郎現村長(第二十六代、新しい面河村になっては第五代村長)などが、それぞれ石丸富太郎(小波)のあとを受けて観光開発、宣伝に努めてきた。
 終戦後は、大面河観光協会(会長 新谷善三郎)が生まれて観光事業はいよいよ本格化し、そのためバスは面河渓の入口、関門まで通じ、小型は更に亀腹まで行けるようになった。バス路線は、国鉄、伊予鉄の順に開通し、昭和四十五年石鎚スカイラインの開通により観光客の数は飛躍的に上昇した。
 四季を通じての景勝のよさを医者であり、俳人である故酒井黙禅は次のようにたたえている。
   幽谷や知らですぎたる瀧いくつ
   (昭和六年に大阪毎日新聞社が募集した「日本新名勝俳句」高浜虚子選に最高位で入賞したもの。昭和四十二年五月二十一日黙然句建設委員会が亀腹鶴ヶ背橋の東畔に建てる。高さ一・六メートル、幅〇・五メートル、自然石)
  瀧の道錦木橋を仰ぎ入る
  冷かに澗水たたえ十九尺
  紅瀧の昇るが如くサルスベリ
  山の家コバノトネリコ花盛り
  涼しさや身のまわり只渓の音
  日月と古りゆく渓の幾曲がり
  戻り来るあめ釣一人秋の雨
  あめ釣も岩茸採ももっと奥
  みみづくや渓深々と雪敷ける
なお俳紙「若葉」主宰者の故富安風生は
  霧さむし深山燕の鋭き谺
とうたい、この句碑は、面河国民宿舎前の広場東北隅に高さ一・五メートル、幅〇・六メートル、台石〇・八メートルの自然石で「富安風生先生喜寿祝賀並に糸瓜三十周年記念事業として糸瓜発行社之を建てる 昭和卅六年八月 森薫花壇」と刻され建てられている。(側面に石工誠鳳とあり、糸瓜社とは、若葉が全国組織の俳句結社であるのに対し、故森薫花壇を中心とする地方組織の結社である。)
 以上面河渓の歴史を概観すると次のようである。
一 天正十五年(一五八七)面河渓を占める実に三、二〇四ヘクタールの国有林野は、この戦国時代、大洲藩戸田勝隆公の支配地。
一 慶長八年(一六〇三)賤ヶ岳七本槍で有名な加藤左馬介嘉明公の支配地(合津城主に封ぜらる。)
一 寛永四年(一六二七)蒲生忠知公支配地参勤交代途上京都にて客死、継嗣なく廃絶。
一 寛水十二年(一六三五)松平隠岐守定行公支配地伊勢国桑名城より松山城主として封ぜらる。
一 天明三年(一七八三)面河踏査、松山藩山林奉行加藤勘介の面河山 林踏査(当時は、面子と書く。)山中詠吟を残す。面河に関する文献で最古のもの。
一 明治四年廃藩置県まで二百三十七年間久松家によって治められ明治維新となる。(したがって面河渓は、これらの諸候の領有管掌の許に過した。)
一 明治新政府実現により国有林(現景勝地)に編入された。
一 明治三十六年(一九〇三)温泉郡重信町拝志上村出身、石丸富太郎、面河村小学校教師として赴任し、面河渓開発着目、広く世に宣伝し紹介に尽した。
一 大正十五年五月(一九二六)作家、厳谷小波登山す。
一 昭和二年六月(一九二七)画家、 語堂登山す。
一 昭和二年七月(一九二七)作家、秋山英一、「石鎚連峰と面河渓」を著す。
一 昭和五年六月(一九三〇)歌人、吉井勇登山す。
一 昭和五年十月(一九三〇)作家、江見水蔭登山す。
一 昭和八年二月(一九三三)文部省告示第五九号第一類天然記念物保存法第一条により国指定名勝地に指定する。
一 昭和八年五月(一九三三)文部大臣、尾崎行雄登山し、面河渓入口猿飛滝を綿木の滝と命する。
一 昭和二十八年十月(一九五三)農林大臣、赤城宗徳登山す。
一 昭和三十年十一月(一九五五)国定公園に指定する。
一 昭和三十二年(一九五七)面河川・坂瀬川・割石川・水利利用面河ダム設置着工する。
一 昭和三十六年八月(一九六一)面河渓に富安風生句碑建立する。
一 昭和三十九年(一九六四)面河ダム完成す。
一 昭和四十年一月(一九六五)石鎚スカイライン着工する。
一 昭和四十二年三月(一九六七)面河渓に酒井黙拝句碑建立さる。
一 昭和四十二年四月(一九六七)明治百年事業全国六か所に国民のいこいの場として国民の森設定する。面河もその一つ。
一 昭和四十二年四月(一九六七)明治百年記念として、皿ヶ嶺連峯県指定自然公園として鼓ヶ滝が指定される。現在流失。
一 昭和四十三年十月(一九六八)面河渓に国民の森詞碑建立する。
一 昭和四十九年五月(一九七四)面河に石丸富太郎翁頌徳碑が書家、浅海蘇山の揮毫により建立する。
一 昭和五十三年十一月十九日(一九七八)面河、関門ホテル前に吉井勇の歌碑建立する。