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面河村誌

(二) 笠方地区

 当地方の学校教育の当初の様子を明治三十三年四月起の『笠方尋常小学校沿革史』冒頭に次のように記述されている。
  不肖本校沿革史ヲ綴ラント然レ共古史散逸シテ頼ル可キ書類無シ。依テ只前任者及土人ノ談ル所ヲ取調べ記シタルノミ。(註 棟田の捺印がある。)
   本校ハ明治八年三月十日ノ設置ニシテ字土居ノ農家ヲ学校卜改メ教授ヲ為シ居リシガ、仝二四年一二月ヲ以テ字竹ノ本五番地へ(幅三間、間口七間)建築セリ。然レ共其後光童増加シ狭隘ニシテ教授ニ堪ヘズ。仝三一年ニ至リ、二間半ヲ増築セリ。其本校ハ元渋草校ノ分教場ナリシガ簡易科が尋常ト改マル際二笠方尋常小学校ト独立ノ一校トナリシモノノ如シ。且ツ此ヨリ以前ハ本校下ノ戸数ハ僅二四八戸ナリシガ近年ニ至リ諸方ヨリ移住ノ為現今ハ百七〇戸ノ多キニ達シタルト同時ニ、在籍児童モ殆ド百名二昇ラントス。此中二於テ従来ノ教室ヲ二分シ二学級ヲ編成セリ。是三八年四月ナリ。(註、棟田の捺印がある。)
 これによって創設当時の様子がしのばれる。その後の笠方小学校の変遷は次のようである。
 明治四十一年十一月児童の増加に伴い学校が狭あいであること、また、校舎の朽廃を来したため地区有志の寄付金によって新築し竣工した。
(大正年間の記録なく不詳)
   昭和三年三月運動場を拡張、また教員住宅を建築した。
   同四年四月学級増加により三学級編成となる。
   同五年四月教室狭隘のため第三学級は青年会堂を仮校舎として使用する。
   同七年七月父兄母姉懇談会を初めて持つ。
   同九年七月新校舎建設のため仮校舎へ移転をする。九月新築中の校舎が台風のため倒壊する。十月再び新築工事を開始する。
   同十年十月新校舎建築落成する。学級増加し四学級編成となる。
   同十五年十二月奉安殿竣工する。
   同十六年七月母の会を開催する。十月御真影を拝戴する。
   同十七年六月校庭の石垣崩壌、翌十八年六月修復工事完成する。八月台風のため校舎、住宅に大被害を被る。
   同二十一年一月御真影奉還する。
   同二十二年一月学級増により五学級編成となり、更に四月六学級編成となる。六月PTAの会を作る。
   同二十四年四月給食場及び炊事場竣工する。
   同二十五年九月キジヤ台風により校舎破損する。十月修復、補強工事を行う。
   同二十六年十一月校舎屋根壁の修理を行う。
   同二十八年四月一学級減のため五学級編成となる。六月運動場へ金網を張る。
   同二十九年七月村及び地区共同出資による村費教員一名配置を受け、六学級編成となる。九月台風一二、一四号のため校舎、住宅に被害を受ける。
   同三十年八月校舎補強大修理を行う。(仮教室としてお宮五教室、会堂一教室を使用)
   同三十二年八月村PTA大会を行う。参加者二五七名。
   同三十三年七月職員室増築工事を行う。
   同三十四年ダム関係補償問題解決し、つけ替え道路等の工事が開始された。これにより水没地域内の住民の大部分が転出、児童数も大幅に減少した。
   同三十五年五月幼児学級を開講する。本年度ダムエ事の本格的開始にともない学校移転問題も進展し始めた。また、部落会・PTA・婦人会などもそれぞれ数回の会合を持ち討議し、ほぼ石墨小学校との統合の線に到達。全体会を開き統合促進委員会を開き、石墨校と話し合いを持ち統合の線を決定する。その後村当局と話し合いを持ったが両者の意見まとまらず決定せず。(沿革史より)
   同三十六年テレビを寄付金により購入。
   同三十七年校舎移転の問題は統合か独立か未定のまま年度を越す。
   同三十八年九月旧校庭最後の運動会を行う。新校地整地工事始まり、翌年二月十五日新校舎竣工し落成式を挙行する。(工費一〇一四万円)
   同四十年二月新校地土端修理工事並びに校庭に植樹をする。六月はん登捧取り付け作業
   同四十一年二月校歌「七つの丘」制定(作詞木村 忠、作曲木村 忠、新川)
    一 なだらかな七つの丘よ
      湖水はきらめくエメラルド
      白い雲が浮かぶよ
      青い空と湖に
    二 丘の上に輝くよ
      新しいぼくらの笠方校
      ぶらんこを高くこげば
      屋根の黄色が目にしみる
      (三、四省略)
   同四十二年度十月より学校統合問題について五回協議を重ねた結果、同四十三年三月十日村教育委員会より学校統合決定の通知が来る。三月二十五日閉校式を挙行する。
   同四十三年四月一日渋草小学校に統合する。

笠方小学校児童数推移等沿革

笠方小学校児童数推移等沿革