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面河村誌

第二章 村営私設電話

 昭和六年(一九三一)ごろから村営の私設電話を設置し、広報の伝達を即刻しかも円滑ならしめた。
 はじめは村の連絡手段として大組単位に通話を開始したが、しだいに、希望に応じて個人にまで取り付けることとなった。しかし電話線・電柱・電話機など、当時としては相当の経費がかかるため、昭和十六年二月、新居浜市住友鉱業株式会社別子鉱業所から、一五〇〇円の寄付を受けている。
 昭和十四年戦争たけなわのころ、笠方部落から、電話架設について、次のような陳情書が提出されている。
   防空用電話架設ノ義陳情書(原文のまま)
  当部落ハ村役場ヨリ離ルルコト殆ド二里ニシテ防空ノ通報等ノ伝達ニ自転車ヲ以テ行ヒツツアルモ道路至ツテ悪ク殊ニ冬季ハ積雪ノ為自転車ヲ用フル事能ハザル場合多クシテ防空警報ノ通達ガ完全ニ実施不可能ノ次第ニ有之候ニ付村役場ト当部落間ニ電話ヲ架設シ以テ防空通報ノ完備ヲ期セラル様急迫ニ御取運被下度之レガ経費ノ負担ニ就テハ当部落ニ於テ相当ノ犠牲ヲ払フ所存ニ有之候ニ付何卒特別ノ御取計ニテ急速ニ実施方御願申上候
     昭和十四年十月三十一日
    面河村笠方 面河村警防団第三分団
           分団長    八幡光政
           班 長    津島信一
    笠方家庭防空組合長
           笠方大組長
                菅野正之
      面河村長八幡文太郎殿
 これにより、当時の広報活動の困難さをつぶさにしのぶことができる。
 戦争中の兵士の動員令の伝達、戦没者の通報などは、村役場から徒歩で、村内の各該当者に伝達された。雨・風・雪にかかわりなく、特に夜間は役場備付けの弓張提灯をさげて伝達が行われていた。
 そうした非常時の通達も、私設村営電話により、役場から部落へ、また部落間の通話は、役場の私設交換台から、それぞれ伝えられたものである。
 県道・町村道の発達整備・自動車交通・そして電話の普及により私設村営電話も、戦後(昭和二十年)姿を消した。