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面河村誌

一 村落の始まり

 「組」あるいは「惣」は、南北朝時代(一三三六~一三九二)から始まった農村社会の自治組織である。「伯方の六軒株」とか、「草分(くさわけ)七軒」などといわれたものがその部落の起こりで、ある地域に住みついた同族が、共同生活を行っていたのであろう。やがて、他の人々が移り住み、「組」とか、「惣」という自治的な単位が、できたのであろう。
 共同作業の場として「五人寄合」「惣持山」など、その名のとおり、一つのグループ又は組の所有の山畑があった。特に住居の屋根をふく「萱だば」は、組の惣持山であり、各組が所有、管理していた。
 藩政時代には、庄屋・組頭・五人組などの村役人があり、明治時代になって、小組に伍長又は組長、大組に大組長又は総代があり、大組長は集落の選挙で選ばれ、大組の代表者であると同時に、自動的に村の行政的な役割を果たせられ、役揚と住民のたいせつな中間的な存在であった。
 小組の中では、それぞれの関係の道路・家普請・橋梁・葬式などの共同助け合い作業、神社はもちろんのこと、学校までも、集落の共有として管理した。こうした作業は、集落全員、又は各戸回りで、出歩・内役といって、小組又 は大組内の自治を円滑に行った。   
 こうした公共の作業以外に、個人の災害・不祥の事がらについても、そのことの大小に応じて小組又は大組は、人情味あふれる相互扶助の精神で苦難をともにしたものである。
 大組長は部落の顔役、代表者であり、時には、部落の利益代表として、あるいは、役場の行政上のこまごました事から、協力・伝達者・特に税金の取立てなど、大きな仕事をつかさどった。
 明治時代から、当村の大組は、前組・相ノ峰・笠方・渋草・大成・本組・中組・川ノ子・相ノ木・若山で、昭和二十年太平洋戦争後、地方自治制の改正により、嘱託員制度が発足、大組長は、村の行政を嘱託される嘱託員となった。
 しかしながら、太平洋戦争中は、上意下達の徹底を期するため、昔の五人組の復活ともいうべき「隣組」が組織され、一億一心、総力結集の単位として、強力な力が発揮された。