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面河村誌

二 共同作業

 藩政時代から大正時代にわたり、ほとんどの家屋は、萱葺で、集落には、必ず惣持の「萱だば」があった。組の中の話し合いで、屋根のふき替え作業は、組の共同作業で行われた。萱は初冬に刈り取り、翌春の初めに新しい屋根にふき替えたのである。
 集落の者、その他近親相寄り、その人々の能力に応じて、作業を進めたものである。
 新築の場合も、大工仕事は別として、用材の搬出・敷地・基礎石の打込みをはじめ屋根はもちろんのこと、すべて手仕事は、組の共同作業で行った。
 昭和の初めから、屋根は萱ぶきからしだいに瓦に変わり、往年の「萱だば」は、杉・桧を植えて山林となるとともに、建築方式も昔のような農家から住宅風に変わり、生活様式も風習も昔のものは、だんだん消え去っていった。
 面河川・割石川筋には、多くの橋が架かっていた。その多くは一本橋で、夏から秋にかけての洪水で流された。橋は道路の一部であり、特に通学路に当たる橋は、集落総出でその復旧作業を行った。
 その他、神社はもちろんのこと、地元小学校の災害についても、集落は率先して余り役場の世話にはならず、みずからの労役で処置したものである。大組のことは、言うまでもなく、特に小組のもろもろのことは、吉凶いずれを問わず、家の延長として相互扶助の精神で助け合ったのである。
 急病人が出ても、今は救急車、かつては戸板に乗せて黒森峠を越え松山へ、あるいは高台越して土佐池川町までも運んだのである。
 結婚についても、家から家へ、集落の人に見送られつつ、近くても遠くても徒歩で嫁入りしたものである。夜道を提灯の行列で山坂を越え行く花嫁御寮、それはもはや童話の世界であるかのように思われる。
 小・中学校・村道など、役場がじゅうぶん管理整備してくれるので、集落負担の共同作業の場も狭まり、米作農家も機械化によって労力が省かれ、木炭・三椏・雑穀作りの農業はしだいに姿を消し、道路工事・山林労役・観光サービス業などに就労、地場産業の相互依存の度合は、ほとんどなくなっていった。