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面河村誌

三 講

 各集落には、同志が集まって祭りや行事を行う集団があり、それを「講」と名付けた。
 講は元来、仏教の信仰の集まりであったが、後には同志の集まりを意味するようになり、互いに寄り合って酒食をともにする仲間の娯楽的な集まりでもあった。
 信仰集団としては、「お山講」(石鎚神社参拝のため)「多賀講」(松山市新立多賀神社参拝のため)「お伊勢講」(伊勢神宮参拝のため)「子安講」(周桑郡小松町子安大師参拝のため)などがあり。講員は積立金で順番に参拝又は、代参などをした。しかし、このような素ぼくな風習も、信仰心の薄らぎのためか、昭和の時代になってからだんだんなくなった。
 ただ一つ「念仏講」が残っている。これは、黒妙・相ノ木などでも行われていたが、今残っているのは本組だけである。七月七日、七夕様の日、公民館横のお堂に集まり、供え物をあげ、若竹・色紙・川の小石を重ねて飾りをし、車座で大きな数珠をたぐりながら鐘を打って念仏を唱えるのである。古色そのままの祭檀、念仏の節回し、やはりこうした風習は、いついつまでも残したいものである。
 農民には、特に雑穀農家は常時現金収入はないものである。昭和二十年ごろまで、この地に銀行はなく、ただ、金融機関として郵便局があった。こうした地域で、経済的な相互救済の手段として、各地に頼母子講があった。
 当地の頼母子講の仕組は、主として親頼母子講である。だれだれ始めといわれ、その親には、最初優先的に長期分割返済の方法で融資するものである。
 大正十五年十二月、渋草久保亀太郎始め頼母子講の規約を参照されたい。
     規 約(原文のまま)
 (一) 組 織
   一 久保始メ頼母子会ト称ス
  二 久保亀太郎外五十四名、五十七ロトス
  三 一口掛金五円宛トシ親子共無利息
  四 会務整理ノ為メ管理者壱名ヲ置ク
     報酬ハ会毎ニ弐円宛トス
   五 会務上重要事出来ノ場合ハ評議会ニ依リ決ス評議会ノ会員ノ意見トシ決議ハ会員全部ノ決議トス
     報酬ハ開会毎ニ壱人壱円宛トス
 (二) 会日及時刻
    毎年「弐月」「五月」「七月」「九月」「十二月」ノ各「十八日」午后「七時」集会スルモノトス
    開札ハ午后「八時」トス
 (三) 会席及席主ノ義務
   一 会員ハ各一ロニ対ジ一回宛席主トナルモノトス
   二 席料ハ一回参円宛トシ茶菓子料トス
   三 席主ハ会日五日前ニ各会員ニ案内スルモノトス
   四 席主ハ已取者ニシテ集会時刻内ニ掛金ヲ持参セサルモノアル時ハ集金ニ至ル迄ノ労ヲ取ルモノトス
   五 二番会ノ席主ヲ中川弥三郎トシ参番会以後ハ弐番会以後ノ藩札者、順次席主トナルモノトス 
 (四) 会金ノ融通及連帯者ノ責任
   一 近時財界ノ不振ニ供ヒ何レノ頼母子モ其ノ集金二予想外ノ手数ヲ要スルモ本頼母子ハ信用ヲ旨トシ此ノ悪弊ヲ一掃シ落札者ハ恰モ郵便貯金ヲ引キ出ス如ク会当日若クハ其翌日取引終ル様各会員ハ必ス会日ニ掛金ノ完納ヲナシ金融ノ円滑ヲ計ルヲ以テ目的トス
   二 初会ヲ大正拾五年十二月十九日トシ金弐百拾円ヲ久保ニ貸与ス
   三 二番以後ハ入札二依リ最底者二会金ノ融通ヲナス
   四 落札者ハ連中ヨリ二名連中外ヨリ二名ノ連帯者ヲ取リ取引ヲナスモノトス
     連帯者ハ相当信用ノ厚キモノナルヲ要ス
     (以下略)
 こうした頼母子講も、昭和時代となって、農村における経済的相互扶助の精神のすたれとともに、当村のみならず、他の農村においても見られなくなった。しかしながら頼母子講は、農村経済史の見捨ててはならない一つの断面であったといえる。
 都市部の大衆金融利殖機関として、不特定多数の講員からなる、無尽講が発達したのは、昭和時代に入ってからである。その無尽講も、昭和二十六年ごろ全国各地で相互銀行となり、発展的に解消した。