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面河村誌

(五) 髪 容

 明治四年(一八七一)三月、断髪令が公布された。江戸時代から伝わってきた男子の丁髷を切り捨てて、散髪することが強制されたのである。
 文明開化の風潮は、明治初期の政治・思想ばかりでなく、風俗や社会生活の面に至るまで、大きな影響を及ぼした。つまり、封建社会の象徴たる「髷」を落とし、断髪することは、欧米開化の風俗を表すものである。
 当時盛んに行われた髪型は、半髪・総髪・ザンギリ・冠下(公卿―朝臣・公家衆・武士)・坊主の五種であった。しかし、中には髷を切りかねて、しだいに髷を縮める、いわゆるどうしようかと「思案髷」などもあったという。当地でも、明治四十年ごろまで、髷を惜しんで、思案髭のままの古老も、二、三いた。
 ザンギリとは、元結を結ばず、髪を散らしたままにしておくことで、明治初期に流行し、半髪・総髪に対して、文明開化の髪型と、ほくそ笑んだ。当時のザレ歌(戯歌)に、
  ザンギリ頭を叩いてみれば
    文明開化の音がする
 女子の髪型は、江戸時代から、丸髷・銀杏返・銀杏崩などがあった。丸髷は既婚の婦人、銀杏返は粋筋ー芸者衆などーの、銀杏崩は少女の髪型であった。「桃割」は、明治・大正時代、十六・七歳の少女の髪型で娘のシンボル、結婚前の娘は必ず一度は結った髪である。
 明治三十七・八年戦役(日露戦争)後、婦人の髪型で、二〇三高地というのがある。二〇三高地とは、旅順要塞、二〇三高地の地名、タボ(髱)が前に張り出した髪型、当時としては、粋な名を付けたものである。
 第一次世界大戦(一九一四~一九一八)に従軍したヨーロッパの女性が、戦場で頭髪の寄生虫を防ぐため、女性として初めて断髪した。それが、昭和初年から、我が国でも、新しき女性を自負する婦人の間に流行し始めた。
 このように、在来の日本髪はしだいにすたれ、やがて、パーマ(パーマネントウェーブ・電髪・電気や薬品を用いて毛を縮らせる)が流行定着した。そうして、近年、未婚・既婚にかかわりなく、若い女性の間に活動的なショートカット・ロングヘアーがその主流になりつつある。
 懐古趣味として、新日本髪が生まれた。「かもじ」を使わず、日本髪のシルエットをいかした女性のヘアースタイル。ショートカット・ロングヘアー、また、パーマがかかっていても結える便利さがあり、アクセサリーは生花・桃割れアップとも呼ばれ、和服晴衣の髪として愛用されている。
 歴史は繰り返すか。自由と平等の尊重を意味した大正デモクラシー時代、高等学校のバンカラ学生の頭は、ザンギリ型。近年特に流行したポピュラー=ミュージックのその演奏者もザンギリ髪、又はその変形、皮肉なめぐり合わせである。
 明治時代から太平洋戦争に至る間、男子は徴兵検査・軍隊という関所があったので、軍隊を終えるまで、男子の髪型の主流は、坊主頭であった。軍隊を終えて、社会人となると、長髪で、おおかた七、三に分けた「ときわけ」、またの名をハイカラ頭。大正時代から、オールバック型も流行した。
 女性は、生活の場で日本髪を捨て、必要に応じて桃割れアップ又はカツラ(鬘)を使う。ショートカット・ロングヘアー・パーマをかける。男性はザンギリ型又は長髪、しかもパーマさえかける。こうした若い人々の髪は、男女の差は余りない。これが現在の髪容といえる。