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面河村誌

(二) 副食物

 副食物はいとも簡単であった。一汁・一菜・塩・味噌・醤油・ニボシ・アゲの調味料・それに大根・菜葉・ゴポー・ネギ・イモ類。それをいろいろ組み合わせて汁・煮物。これが普通のパターンである。味噌は各戸で、醤油も家によっては自家造りであった。
 大正時代までは、牛肉類はもちろんのこと、塩鰯・塩鯖さえも、なかなか口にできなかった。ただ、各戸には必ず鶏を飼っていたので卵・肉は唯一の蛋白源であった。
 ジャガイモ・サトイモをゆでて竹クシに刺し、味噌を付け囲炉裏であぶった俗称デコマワシは、格別の味があり、野趣たっぷりな味覚であった。
 豆腐・蒟蒻はすべて手製。しかもそれは正月か祭りなどの紋日(モノビの音便・物日)そして吉凶のときなどで、ふだんはめったに口にできなかった。
 豆腐の田楽・味噌ごんにゃく、それぞれ純粋の味があった。そばと同じで、今の豆腐、こんにゃくには本来の味も香も失われている。
 昭和二十年、太平洋戦争終戦前後、農村でも食糧事情が悪くなった。雑穀・いも類に至るまで強制供出、米・塩などの配給切符制、都会は申すに及ばず、農村に至るまで、青息吐息で飢えをしのいだ。
 昭和二十六年、朝鮮戦争による特需景気、昭和三十二年、いわゆる神武景気、日本は高度経済成長期に入り、人々は農村から都会へ工場へと流れていった。面河ダム・石鎚スカイラインの建設、県道・村道・農林道の工事・面河村公営企業の観光施設などのため、特に雑穀地帯の人々は、それぞれの職場に就き、住年の面河の面影はなくなった。山・畑は杉・桧の植林、雑穀農業はゼロに等しくなった。かつては、この地の百姓が、米の飯を常時食べることは、夢想だに思っていなかったが、それが、昭和三十年後半から実現した。
 交通の便がよくなるにつれて、肉・魚・果物・野菜に至るまで、村内の店頭にあるいは移動スーパーで何不自由なく手に入る。都会となんら変わることのない時代となった。
 特に、インスタント食品の豊富な出回りは、一つの革命ともいえる。ラーメン・カレー・コーヒー・味噌汁・赤飯など、現在インスタント食品と呼ぶものは数限りない。飯は電気釜、茶はポット、省力と便利さの反面、手造りの味はだんだん失われていく。学校給食で育ち、インスタント食品や冷凍食品になじんだ戦後生まれのヤングたちは、いわゆるファースト=フードの上得意である。
 昭和四十四年、資本の自由化とともに進出したアメリカ系のハンバーガーは、余りにも有名である。右手にハンバーガー、左手にソフト=ドリンク、こうした街頭での立食い風景は全国に広がって、一種のファッションにさえなった。
 元来、日本の文化は、雑食文化である。中華料理や西洋料理をずいぶんと取り入れてきたが、とってかわるようなことはなかった。しかしながら、最近都会では、外食族が増え、ファースト=フード・インスタント食品の増加につれ、日本古来の味覚「おふくろの味」がひとしお郷愁をそそっている。
 主食である「米」は、国民一人当たりの消費量年間八八・一キロ(一九七五)、明治・大正時代の平均消費量約一五〇キロ(一斗)、それが、昭和三十五年(一九六〇)一一五キロ、そして、ついに八〇キロ台になった。その反面、小麦・肉類の需要は増加する一方である。
 米の自給率は(一九七五)一一〇%、殼物全体の自給率は、四〇%、小麦・大豆の自給率はわずか四%、食糧問題が国際化した今日、日本の食生活は、いよいよ複雑多様となった。日本人にとって欠くことのできない魚介類にしても、二百海里水域の日ソ間の問題で、北洋漁場水域が狭められ、北洋魚の漁獲高が減ったとはいえ市場にはまだ北洋魚・近海魚・外国から輸入した冷凍魚が多量に出回っている。
 食肉類も、上等の和牛こそ庶民の手の届かぬものになったが、輸入牛肉・豚肉・鶏肉・ハム・ソーセージなど、各種の加工品、その他乳製品、野菜や果物など、国産品はもとより、ヨーロッパ・アメリカなどの外国から空輸されたものが、デパート・スーパーマーケットなどの店頭にあふれている。
 こうした国際的な消費生活の中にあって、自給自足のできない日本国の状態に不安を抱きながらも、必要以上のインスタント食品のはんらん、まさしく、最近の食生活は、ある意味ではぜいたくの一語に尽きる。