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面河村誌

一 焼畑農業

 焼畑ーかつて日本で広く行われた農耕の形態で、日本文化のルーツを探るうえでも重要なる生業といわれている。山村の当地も、開拓以来ずっと長期間にわたって、焼畑による農耕に従事してきている。
 焼畑とは、山林を切り開き、そこを焼き払って耕地にするもので、肥料を使わず、一年から数年耕作するものである。
 歴史をたどると、平安朝時代の史書『三代実録』の八六七年(貞観九年)三月二十五日の条に、「大和国に命じて、農民が、石上神社の山を焼いて、豆類や雑穀を作ることを禁止する」とある。つまり当時大和国では、神社の周りで焼畑が行われていたことを示している。
 近代になって、昭和十年(一九三五)農村省山林局の調査では、全国で七万ヘクタールであった。それが昭和二十五年(一九五〇)には、一万ヘクタール、従事戸数一一万戸と減少している。つまり、太平洋戦争以前は全国的に行われていたが、余りにも原始的な土地利用で、経済の発展とともに衰退し、ただ、わずかに焼畑農業の行われている中心的地域として、椿山(高知県池川町)、五木(子守唄で有名である。態本県)地方が有名である。
 点々として集落の周辺の山々に、栽培する作物に応じて、適当な雑木林を切り開く、通称「山切り」といった。山切りといっても、ただ、雑然と木を切り倒すだけではない。燃えやすいように、しかもよく燃えるように幹・枝を切り放す、時には薪を取ることもある。幹は「クイゼ」枝は「コマギ」、いずれも囲炉裏用である。
 春から夏にかけての「山切り」は麦作のため、秋から冬にかけての「山切り」は、唐黍・稗・粟など。
 麦山は初秋、唐黍山は春の山焼である。まず、焼畑の周囲に火道(防火線)を入念に作る。火道は焼畑の広さ・位置・風向などの条件を考えるが、普通幅三メートルぐらいに枯木・落葉を取り払い、場所によっては、鍬を入れる。そして、風のないだ夕暮れ、集落の人々の応援を得て、切り山の上部から左右の周りに、静かに火を入れる。青空に、火の粉は舞い散り、ごうごうと音を立てて燃え上がる。実に壮観である。その季節には、あちこちの山々でも、夜空を焦がして、山焼が行われているなおこの作業はあらかじめ、役場に、「火入願」を提出して、事前に許可を受ける必要があった。
 焼畑の畑打ちは、手足も顔も、灰と埃が汗にまみれて、萱の株・葛の根を掘り起こす重労働である。この土地で生活するからには、逃れることのできない宿命ともいえる。焼畑の最初の畑打を「ハガリ打」といった。
 最初の一年は、ほとんどの作物は地力じゅうぶんで豊作であるが、しだいに地味は衰えていく。雑穀から三椏・楮、そして、杉・桧の造林か、またもとの雑木林となる。
 蕎麦を作る蕎麦山は、春から初夏にかけて山切りをして、八月、最夏の山焼である。そして八月下旬から九月上旬に種をまく。実に簡単な作物で、蒔付けてから七五日たてば、その刈り取りに鎌をさげて山へ行けといったほどである。
 焼畑農業は、面河では、今、全く見られない。しかし、我々の祖先は、このようにして、食糧の自給に、辛酸をなめたものである。でも、将来、その必要がないかといえば、その保証のできる根拠は、あるいは一つもないかも知れない。
 科学万能の社会が崩れ去れば、残るものは、山河、地力そして人力、しかも食糧は、他の何物よりも優先する。
 一夜の台風で、唐黍が、根こそぎ飛び散るかも知れなくても、一握の殼物を求めて生き続けてきた、それが面河の我々の祖先である。
 焼畑農業は、かつて、日本で広く行われた農耕の一形態で、文化のルーツを探ぐるうえでも重要な生業である。また、その歴史は、ある意味で、この地に生き続けた人々の貴い生活史である。
 面河村は、地形的に「行きどまり」の僻村である。近代以前の古い村落社会の遺風・独特の生活様式・水田中心の農業と、まったく切り離された焼畑の村の生活リズム、それらは、面河の先祖の貴い遺産、あえて後世に伝えたいものである。