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面河村誌

(二) 杣仕事

 かつての杣川村の地名の「杣」は、あるいは杣職に由来するとも伝えられている。面河山国有林はいうまでもなく、民有林にも、松・栗・桧・桜・樅・栂・檸・楓など、天然木の良材が産出され、材木は経済的に重要なる地位を占めていた。
 すべて、人力による伐採・搬出・製材である。険しい山での本切・玉切・大割、この作業に先山といい、「リンカケ」して、小割、製板は、木挽の仕事である。
  何の因果で木挽を習うた
    花の盛りを山小屋で
          (木挽唄)
 それぞれの作業に応じて、道具類の整備、先山・木挽ともに独特の勘と技術を必要とし、それは、次から次へと伝授されたのである。
 墨壷と曲尺で演出した製材の妙味、削り一丁で、建築材の荒取りをした技術は名人芸でもある。この素ぼくな杣仕事は、男らしさの作業である。
 しかし、杣仕事も、移り変わった。天然木から人造林の杉・桧の伐採、ワイヤ=ロープによる搬出、動力による製材・製板・さらにはチェンソーの開発で、すべて機械化されてしまった。かくして往年の杣職の面影は全くなくなった。そして、数々の道具は骨董品的存在となり、技術の伝承者もなく、今は遠い昔の思い出、ただ残された大道具・小道具に昔をしのぶのみ、その移り変わりはいかんともなしがたい。
 伊予鉄道株式会社(松山市)建設の汽車は、明治二十一年(一八八八)十月、松山(市駅)三津浜間開通、当地と関係の深い横河原線も、明治三十二年(一八九九)開通した。この鉄道路線の敷設に必要なる枕木(通称スリッパ)は、明治時代の終わりごろから大正時代にかけて、当地から搬出したものである。
 栗の天然木、それを製品(長さ五尺、幅六寸、厚さ四寸の角材-推測)で集材、面河川を流し、御三戸で陸揚げして、そこから県道を馬車(大八車)で三坂峠を越え、松山まで輸送したものである。
 若山辺りから御三戸まで約五日の行程、三〇〇本ぐらいを単位として流したのである。当時は面河川の水量も豊富で、しかも枕木は、寸法・材質とも流木するのに適当であった。
 スリッパブームで、民有林の栗の成木はほとんど切り倒され、秋の栗拾いの楽しみは、一時それがなくなるまでになって寂しくなった。
 なお、現在の伊予鉄道の電車路線の枕木は、ケンタスと称する南洋産の輸入材で、栗の枕木は昭和時代の初めから全く姿を消した。
 当地のスリッパも遠い昔の物語になった。