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面河村誌

三 観光事業と土木工事

 面河村労働の一大転換の原因は、要約すれば次の諸点である。
 すべてに関連していえることは昭和三十二年(一九五七)、いわゆる神武景気以来、日本経済の高度成長である。これは、特に農山村の産業労働、そして人口にまで大きな影響を及ぼした。
 この時点で、雑穀農家は全く切り捨てられた。現在面河村で、農家と呼ばれる戸数一五八戸、人員三七〇人である。これは、米作農家を主とし、兼業農家も含まれているものである。耕作水田約五六〇〇アール、約二二万二〇〇〇キロ(七三三四袋、一袋三〇キロ)の米を生産している。
  (註) 政府売渡数量、一二万五八二〇キロ、二〇九八袋
 昭和五十二年、日本人の一か年間一人の米の消費量は、八八・一キロである。これから推算すると面河村は、主食のみは自給自足できることになる。米作農家は生きても雑殼農家は消え去り、野菜・芋類に至るまで自給ができない状況で、これは、これらの農家の人々がほかに仕事を求め、サラリーマン・日給労務者に転向したためであろう。
面河ダムの起工は、昭和三十五年(一九六〇)、石鎚スカイラインの起工は昭和四十年(一九六五)である。面河ダムの工費は、ダム関係だけで、一八億六〇〇〇万円、石鉄スカイラインの当初工費は、二一億円である。面河村始まって以来の二大事業に、土木労務者として就労、そして面河ダムの水没農家八四戸三六一人の転出があった。これが面河村過疎の第一歩で、この事業に関連して、村内の生業は変化しはじめた。
 特に石鎚スカイラインの開通は、経済の成長につれて観光ブームを呼び、昭和四十一年国民宿舎面河の営業開始をはじめとして、その後、岩黒・石鎚(土小屋)・観光センター(関門)・民営では、白石ロッジ(土小屋)・渓泉亨(亀原)・関門ホテル(関門)など、これらの観光施設に、村内の女子の就労する者多く、現在村営の国民宿舎・観光センターに、常備女子一四人、その他民営の旅館・土産品店・盆栽などの売場に常女子約二〇人が就労している。
 延長一八キロ、二車線の有料道路石鎚スカイラインは、開通後、度々の災害に遭い、その復旧・補修工事、瓶ヶ森林道及び御三戸・関門間の県道の二車線に拡張工事、面河村管掌農林道工事など、そのピーク時には、大小約五〇社の建設業者が、その施工に従事していた。村内の西岡建設有限会社、若山建設有限会社のみでも、合わせて常時五〇名前後の労務者、村外業者も、それぞれ村内労務者を一揃い入れるので、その数約一五〇名ともいう。