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面河村誌

四 労働人口

 面河村の労働地図を、著しく塗り替えたものにサラリーマン、つまり給料生活者がある。
 面河村役場は、現在村長中川鬼子太郎以下六一人、農業協同組合・森林組合・郵便局など二九人、小・中学校教職員(県費)三〇人、その他警察・営林署・面河ダム・石鎚スカイラインなど約一五人合計約一三五人、これは面河村人ロの約八・二%である。
 現在面河村の人口は、一六二六人、前表のとおり、男女とも健在で労働ができるとみて、本村の労働人口は推定九七七人である。
この労働人口のうち、月給生活者約一三五人、日給労務者推定一五〇人、商工関係者約五〇人、合計約三三五人、差引六四二人、この六四二人のうちから、月給生活者の家族、兼業農家を除外し、実際に面河村の農業を伝承する者は、一五八戸、三七〇人で、彼らこそ農村面河の中核的存在であり、面河文化の伝承者であることを祈念いたしたい。
 草創の時代から、藩政時代、明治から大正時代、この地の百姓にとっては、あるいは惨めな生活であったかも知れぬ。しかし、そこには、なんとか生きようとした生活の力がにじみ出ていた。
 生業に必要な道具類・生産の方法・日常の生活、あるいはレジャーに至るまで、独特の知恵と創造があった。原始的な架橋方法・曲尺で演出する木取、これは技術である。虫送り・雨ごい・お日待ちの念仏・豊年祭・山の神様など、これは生業と結びついた祈りの証である。盆踊・万才などは、土臭いレジャーである。
 その土臭ささこそ尊い。つまり、自然を相手にした生活の基礎、それは先祖の伝承であり、唄であった。
 しかし、今の労働にそうした伝承も唄も必要としない。スチッチ一つで飯が炊け、トーストパンは焼けたらポンと飛び出す。テレビの「つまみ」を回せば、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」がカラーで見られる。生活に工夫することも、頭を休めて考えることもない。古きものは、良きも悪しきも忘却の彼方へ押しやられ、全く異質な生業・生活環境からは、文化も技術も、農村独特のものは生まれない。労働・生活の変転は、大きくいえば、人生までも変えていくかも知れない。

面河村の人口配分図(昭和53年8月現在)

面河村の人口配分図(昭和53年8月現在)