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面河村誌

五 子守哀歌

 子守りといっても、現在の子供にも大人にも、さして実感がないかも知れぬ。ただ「五木の子守唄」(熊本県)の哀調が、テレビなどを通じて、時折聞けるのみである。
   おどまぼんきりぼんぎり
   ぼんからさきはおらんど
   ぼんがはよくりゃはよもどる
 この子守りは、雇われ子守りである。恐らく盆までの約束で子守りをしているのであろう。盆が来れば、仕着せの着物・履物・手拭などをもらい受け、父母の家へ帰るのである。別に賃金は与えられず、食べさせて、盆には単衣の一枚、履物などを持たして帰したのであろう。
 たとえ、子守奉公に出されなくても、弟や妹の子守りはあたりまえ、学校から帰ると、母の仕事先をおっかけて子守りをさせられたものである。
 明治三十年ごろの当時本村の戸数約五五〇、人口約三四〇〇、一戸当たりの平均人員約六・二人、現在の戸数五六三、人口約一六二六、一戸当たり平均二・九人、大家族で子供が多かったことを如実に示している。
 尋常小学校の適齢期の子供、その親は貧しさのゆえに、余儀なく子守りに出したのである。そして、役場へは、就学猶予願いを出すか、あるいは週に一、二度子供を背負って、申訳程度に、学校に通ったのである。子守りをしつつ学校に行くのは、勉学のためでなく、役場・学校に対する一つの義務を果たすためであった。  
 オムツカバーのない時代、背中に赤ちゃんの小便の漏れることも、しばしば、高い山の畑の小屋で、お腹をすかして泣く赤ちゃん、時には背中の赤ちゃんとともに涙が出る。家が貧しさゆえの悲しさである。
 大正十四年(一九二五)、綿紡績関係の労働者の大部分を占める女子工員、その女子工員の生活状況、労働条件の悲惨さを究明して記述された「女工哀史」がある。紡績工場の労働者の約八〇%を占めていた女子労働者、その多くは農山村地帯の貧農の子女である。もちろん彼女らは尋常小学校(義務教育)卒業者であるが、子守りは、尋常小学校適齢期の子供である。「女工哀史」以前の「子守哀史」ともいえる五木の子守唄の哀調そのものである。