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面河村誌

一 年中行事

 文治四年(一一八五)二月は、源平の戦いで、平家軍が屋島(讃岐国)で敗れたときである。この合戦の敗者平家の一部が、讃岐から土佐、伊予へと四散したと伝えられている。彼らを平家残党という。そして、都(京都)又は西国の風習を、それぞれの土地で伝えたものとも考えられる。
 和銅五年(七一三)当村笠方に八社神社が祭られている。つまりこれは、同時代、既にこの地方に、人々が住居していたことの証でもある。さて、これらの人々が、どこから流れて来たか、もちろんさだかでない。
 そうした先庄民と、平家の落人とのかかわりあい、そして、天文十三年(一五四四)明神村に大除城が開城、これに伴う河野家(湯築城ー東予)、大野家(大州)の交流などによって、当時の農民の風習・年中行事も、それぞれ、多少の異なるものがあってもしだいに、その土地柄に応じて定着したものとも考えられる。特に当地は、西国又は出雲系の言葉が残っており、その影響があったのではあるまいか。
  例えば ヨサリーヨーサ(夜)オッチ(汁)
      ダンダン(有り難う)
      インマナーインマヨ (さよなら)
 ここにいう年中行事は、大正時代末期までのもので、月日は二、三を除き、すべて大陰暦(旧暦)である。なお、農村の年中行事と最もかかわり合のある干支と十二支を併記しておく。
 干 支
  甲 きのえ  乙 きのと  丙 ひのえ  丁 ひのと
  戊 つちのえ 己 つちのと 庚 かのえ  辛 かのと 
  壬 みずのえ 癸 みずのと
 十二支
  子 丑 寅 卯 辰 巳 午 羊 申 酉 戌 亥   
 十二支は昔中国で、十二宮のおのおのの獣を充てたのに基づくという。例えば、子は鼠、辰は蛇、亥は猪などである。それぞれ、時刻及び方角の名とした。
 干支は、十二支と組み合わせ、甲子、丙午など六〇組とし、年、月日などに充てて用いた。例えば、今年は、昭和五十三戊午年、人々にいみきらわれた丙午であり、すべて六〇年に一回巡ってくる。
○正 月
・元旦
  寺もなければ、除夜の鐘も聞けぬ。一番鶏が鳴けば(午前四時ごろ)、一家の主人は若水をくむ。松明をともして米・つるし柿などを供えた。
  正月に神々を祭る行事は、昔は相当厳格に行われていたが、近年生 活様式の著しい変化により、最近は非常に簡素になってきた。
  家々の神棚はもちろんのこと、水神様・荒神様など、ねんごろに祭 られた。氏神様へは、朝早くから、一家打ちそろって、晴着姿で参拝、 年の初めのあいさつ、新しき人々とおかん酒をくみ交わして新年を祝った。
  さと芋を竹串にさしてあぶった田楽、黒豆の煮付などは、この土地の独特の風味のあるものであった。
  なお、元日は、箒・包丁も針も使わぬ習わしがあった。
・二日
  「山の口明け」これは仕事始めの祭事である。「明き方」に当たる山に行き、明き方に向かって、楢、ネズギなどの木を切り倒し、五尺(一五一・五センチ)ぐらいの長さにそろえ、束ねて持帰り、家の近くの畑に、七五三縄、ワカバを添え、明き方に向くように、木の元を土に埋める。
  (註) 「明き方」は恵方ともいう、正月の神の来臨する、その年の歳徳神の居る方角。昭和五十三年は、南、巳・午の中間である。
  また、この日は、「しぞめ」といって、書き初め・売り初め・買い初めなどをする日でもある。「お日待」これは組内の家内安全・無病息災・五穀豊穣を祈る祈祷であり、組内の初会合・親睦会でもある。当番の家から酒食の供応を受ける。昔は、夕方・夜半・翌早朝三回念仏を唱え、夜通しその家に居て、翌日昼食後解散するので、お日待ちといわれたらしい。   
・七日
  この日は、七日正月といってお休みである。「七草雑炊」を炊く日でもある。
  (註) 春の七草とは、せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずしろ・すずなをいう。
・八日
  温泉郡石井村(松山市)の、伊予豆比古命を祭る「椿の宮」の大祭、愛媛県三大祭りの随一。当村からは、徒歩で黒森峠・井内峠を越えて参拝した。商売繁昌の神様で、判取帳・大福帳・宿帳など、和紙綴の各種帳簿は、ほとんど椿さん参りで買い求めたものである。信心のみならず、松山見物を兼ねて三三五五と繰り出した往時が、懐かしい。
・九日
  「山の神」の祭りである。どの組にも、山の神は祭ってある。この日は、各地の山の神様が集まって会合する日。この日は、山仕事は休み、山の神の祠へお神酒などを供え山仕事の安全を祈った。山ならではのお祈りである。
  なお、山の神の祭りは、毎月九日とされている。
・十六日
 「鬼の金剛」
  素ぼくで、しかもユーモラスな行事である。組内が集合して、竹の骨を入れた大きな長円形の藁草履、弁当に箸を添え、部落入口その組の要所・川・道路などに、長い縄で高くつるすのである。
  鬼・悪魔などが来ても、こんな大きな草履をはく人が居れば、とうていかなわないと引き返すという一種の厄払いの行事である。念仏をあげ、ニボシと大根を入れた炊き込み飯を食べ、鬼の金剛を雪の面河川をまたいでつる風景は、版画にしてもおもしろい。
O節分(大陽暦、二月三日又は二日)
  文字どおり季節の移り変わりのとき、大寒の終わり。冬から春の節に変わる「立春」の前日である。柊の小枝に、鰯・いりこの頭を刺した木片を戸口に立て、夜は鬼打と称して大豆の炊ったのをまく。
   鬼は外、福は内、一家の主の声で、
  その夜、仕七川村竹谷の海岸山岩屋寺には、お籠り(こもり)に参加する善男善女が、郡内から集まる。特に若き男女にとりては、恋の花咲く、思い出の一夜でもある。
岩屋市(大陰暦三月二十一日)
  四国八十八か所のうち、第四十五番札所、海岸山岩屋寺の大法会の行われる日である。近在近郷で最も人の集まる日、岩屋さん・岩屋市といって、弘法大師のおかげを受けることもさることながら、春の一日の楽しいレジャーでもあった。徒歩でくるすの峠へ登ると、山桜の散る吹雪のなか、岩屋寺の鐘の響き、人のざわめきが聞こえてくる。
  岩屋寺の登り口には、たくさんの露店、見せ物が立つ。特に「のぞき」は、紙芝居絵を凸レンズを通して見る仕かけ。箱の外側に五、六か所の「のぞき穴」があり、料金(二銭ぐらいか)を払って穴をのぞく、口上を語る調子につれて、絵が変わる。
    伊香保の山の蕨とり
    父は陸軍中将で
    川島武夫の妻となる
    その名は片岡浪子嬢
 有名な「不如帰」武夫と浪子の悲恋物語である。
  参道を登ると老杉の茂る迫道、その両側に多数の遍路さんがいた。
  四国はハンセン病とは関係の深い土地で、四国八十八ヶ所寺などでは、からだが激しく変形した患者の物すごい姿を見たことがあるはずだ。巡礼すれば難病が治るとの信仰があったから、全国から患者が集まった、明治・大正期には少なくとも、常時二千人以上、昭和十年代でも四国には数百人の放浪者がいた。彼等は「お遍路さん」ではなく「へんど」とけいべつ語で呼ばれていた。あちこちのお寺の近くには、行き倒れた放浪患者を埋葬した無数の〝へんど墓〟無縁墓がある…………。
               (昭和五十三年、大阪朝日新聞所載)
○春の彼岸(大陽暦三月二十一日 彼岸入り十八日 彼岸明け二十四日)
  二十一日を彼岸の中日という。太陽が赤道を直射して、昼夜の長さがほぼ等しくなる日である。「春分」ともいい、昔は春季皇霊祭といった。お墓の掃除・餅つき・山へ樒取り・お墓参りは当地の習慣として、主として入り花つまり彼岸初日の仕事である。
  暑さ寒さも彼岸まで。いい得て妙である。
○桃の節句 三月三日
  この日は、女の節句である。このころになると、蓬も大きくなり、新蓬で餅をつきお節句を祝った。当時は、どの家にもあった桃の花びらをお茶に入れて沸かした。
  四日は「ひなあらし」おひな様のお供えを子供が、もらい歩く日とか。
○端午の節句 五月五日、男の節句
  菖蒲と萱・蓬を束ねて屋根へ投げ上げる。ショウブは、尚武、武家時代勝負に強いといって貴ばれたという。菖蒲湯に入り、頭や腰などに巻いて無病息災を願った。萬蒲節句ともいう。
  端午の節句の餅は、かしわ餅。小麦粉・米の粉・蓬などで作る。この節句のシンボルは威勢のよい鯉のぼり。男の子の成長を祈念した。
○石鎚大祭(太陽暦七月一日~十日)
  一日からお山開きで、成就の石鎚神社から御神体が石鎚山の頂上に鎮座、一〇日間のお祭りである。
  当地を通称裏山という。それぞれの石鎚講の信者は、先達を先頭に白装束・草鞋履き・法螺貝を吹いて、二、三十人の団体が、面河川筋の道を次から次へと登って行った。
    なあまいだぼう、お山にゃ三十六童子……
 年に一度の石鎚参りは、信心と、男子が成年になった証でもあった。もちろん女人の登山参拝は禁制、石鎚の御神像は、片足を上げて、今にも天上にのぼるがごとく立っていた。もしまぎれて、女人が参拝すれば、お山は荒れる。つまり風雨になるとも伝えられ、その硬骨さも、なんとなくほほえましい。頂上の岩場で、荒々しく御神体を奪い合う男性美あふれる祭事である。石鎚山の大自然を象徴しているとも思われる。
  石鎚神社の御神饌は、石南木の葉・お水(頂上にわく水)、そして悪除けは、赤い小さな猿のぬいぐるみ。
○夏祭り 六月中旬
  夏季のみそぎ、浄めで病魔・罪穢を払い、清酒を祈請する祭りという。集落によっては、道作りといって、山道の補修をする所もある。    
○田休 稲の植付けの終わり、六月(太陽暦)中旬
○お盆
・七日・七日盆・七夕様
  天の川の両岸にある索牛星と織女星が年に一度の逢瀬を楽しむ日。さと芋の葉の露を集めて、墨をすり、色紙に天の川とか私歌などを書いて、若竹につり下げて家の前に立てる。織女星には、特に麻を軒端に供える。中国古来のもので、書道や裁縫の上達を祈るともいわれる。
  部落で、七日盆の念仏をあげる。今も本組の「お堂」では、昔ながらの「七夕祭」を続けている。
  天上はるか、二つの星の恋物語。年に一度の語らいも、雨の一滴でも降れば、天の川の水あふれて渡れない。
  ここでは雨は無情である。
・十三日 新盆
  この日は新仏が帰る日と称せられた。若竹に葛の花・里芋の葉(蓮 の台の代用か)を飾り、そして門に施餓鬼旗(盆旗)、燈籠をつるす。
 迎え火には麻のカラ(オカラ)をたいた。
・十五日
  他郷に住む人々も帰って、集落の家の中がにぎやかになる。満月の輝く、さわやかさ。そして盆踊り。踊りの場で互いに久闊を叙す。
・二十一日(干蘭盆)
  七日盆から続いた、盆の終わりである。集落ごとに松明をともし、念仏を供え、仏を送る日とされている。
○中秋の名月 陰暦八月十五日
  芒(萱)の穂が出、女郎花が咲く。俗称「芋名月」という。
  (註) 秋の七草、萩・尾花・葛・撫子・女郎花・藤袴・朝顔(今の桔梗)
○秋のお彼岸 太陽暦九月二十三日(二十日彼岸入り、二十六日彼岸終わり)
  まんじゅしゃげ(曼珠沙華)の赤い花が咲く。みょうが(茗荷)の子が出る。木の葉・草の葉も、秋の色合いを深くしていく。昔の秋季皇霊祭。
○重陽、菊節句 九月九日
○亥の子 十月最初の亥の日
  収穫祭りであるとか、田・畑の神様が去って行くと信じられ、子供は、藁を束ねて「いのこ」を作り家々を回って、元気よくいのこ唄に合わせていのこつきをする。このころになると、寒い風が吹き始め、「いのこ嵐」と古老はいう。江戸時代から、この日「火燧」開きの風習がある。
○秋祭り(太陽暦十一月十七日から)
  氏神様の祭りである。愛媛県中予地区では、十月五日松山伊佐爾波神社(道後)の祭礼が、秋祭りの初めである。上浮穴郡では十一月一日久万高殿河内神社から、順次郡内の秋の祭礼が行われ、当村では十一月十七日本組八幡神社から各神社で鈴神楽を奏し、荘厳なる祭典が行われる。十八日は神輿の渡御があり、早朝から各集落を渡御する。
  明治時代から大正時代には、各神社で奉納素人相撲がよく行われた。
  鎮守の森の社から、宮太鼓が響き渡り、幟りはためく村の道々、宮司の先達で神輿の渡御、勇ましい掛け声、獅子舞いの乱舞する農村の秋祭りの風景は、いついつまでも捨てがたいものである。
○年の暮れ
  十二月二十五日までに正月用の豆腐、蒟蒻つくり、二十八日ごろには、餅つきである。一番鶏の声とともにつき  始める。木の臼で手つきである。粟・唐黍、それから蓬餅・小豆の丸あん入りに、団子(平子)・米の餅は、一臼か二臼、三斗から五斗ぐらいつく家が多かった。
  正月のお飾りに、七五三縄を作る。七五三縄は、水神様・山の神様、荒神様などに供える。門松は芯のある若松、竹を添え、七五三縄を張り、橙若葉・山草を下げる。
  薪も、木小屋にいっぱい。神棚・仏壇・家の内外の掃除も終わって、正月の、おかん酒・衣類・下駄などをそろえて正月準備万端終わりである。
○暮れ勘定
  小組・大組の勘定は、各種共同作業の出歩・神社・部落の負担金・部落役員の給料などの収支決算・役場からの伝達事項・集落内の申し合わせなどを協議し、来年度の集落予算・組長・大組長(村事務嘱託員)、神社総代などの選任をする。
  個人としては、一般に、年の瀬を越すのは、容易でない。通称節季、まず貸借の決済、商人への支払い(商人への支払いは、正月と盆の年二回が普通であった)など、現在の人々には、想像もつかぬあわただしさであった。
  電気もないころである。提灯をぶら下げて行き交う人々、ある者は貸金の取立てに、ある者は借金の返済か借用証書の書替えに、まさしく今宵一夜が一年の総決算、節季である。
 以上、年中行事は、大陰暦(旧暦)を中心に、明治時代から、大正時代の農民の生産と生活に伴う行事の大要を述べた。あるものは、今もそのしきたりを残し、あるものは忘却のかなたへ姿を消してしまった。

十二支

十二支