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面河村誌

七 面河七人衆

 慶長二年(一六○○)九月十五日。高槻(大阪府高槻市)五万石の城主である松岡伯耆守吉興は、関ヶ原の合戦に敗れ、従う者もなく独り松尾山を降りて行った。高槻城内には、一二歳になる子吉滋が残された。
 何日か後、こっそりと人目をはばかるようにして城に帰った吉興は、うかうかしていると、敵が一気に大坂へ乗り込んでくるかもしないと思い、吉滋を連れて旅に出たのであった。五万石の大身吉興も、今となっては浪々の悲しさ、流れ流れて行く身の果てを思って、涙ぐむ日が重なるのであった。
 西へ西へと追われるような旅が続き、姫路・広島と過ぎ、赤間が関(下関)へたどりついた吉興は、心労の上に長旅の疲れが重なり、とうとう倒れてしまった。そして、一〇日後、息子吉滋の看病のかいもなく息を引き取ったのである。
 父を亡くした吉滋は、どうすることもできなくなり、もときた道を引き返すよりなかった。途方にくれ、何日も何日もしてやっとのことで懐かしの高槻へ帰り着いた。帰ったものの、城は、自分のものではなくなっているし、知る人も一人としていなかった。
 だれにも相手にされず、寂しさがつのるばかりの吉滋は、いっそのこと人間のいない所へとでも思ったのだろうか、四国へ渡り、大味川へ腰を下ろすことなったのである。
 緑したたる山々、青く澄んだ流れはもちろんのこと、人間の影が見えないのが、吉滋をこの上もなく喜ばした。吉滋は、日当たりのよい土地を選んで小さな小屋を建て、なれないクワもとるようになった。年も二二歳になっていた。
 だれに気がねするでもなく、静かな生活が続いていたが、ある日のこと、ヒョッコリ人影を見た。その人は、「中川善之助」と名のり、河野の家臣で「主膳正直清」というれっきとした武士であった。しかし、吉滋は、自分の身分を明かそうとはしなかった。
 そのうち、河野の家臣は、善之助だけでなく、ほかに五人の仲間がいることもわかった。「菅弥五衛門」「菅苗内蔵之助」「菅長助」「高岡市右衛門」とその弟「八左衛門」がその五人である。彼ら六人は、土佐との国境守備の任務に当たっていたのである。
 そのうち古滋も意気投合し、この六人組の中に加わった。それからしばらくして、古滋の前歴が明らかになり、その人がらとともに付近の評判になってしまった。吉滋は前歴がバレたことにより、大坂からの追っ手を心配し、こっそり逃げ出そうかとも思ったが、いつかは知れることだったのだと思いとどまった。
 追っ手もなく、生活も落ち着き、家も建てた。人望も厚く、推されて里正(村長)にもなった。そして、父吉興が慕い続けた石田三成のために五輪の供養塔も建てた。
 この吉滋を加えた七人衆は、面河一帯に散在して、互いにいろいろのつながりを持ちながら活躍した。
 七人衆は、めいめいの家に家系や武具などを納める「入らずの間」を造って、女子どもを入れないでいたという。
  桜井忠温著「面河七人衆」より
 桜井忠温が、戦後面河を訪れ、その「入らずの間」のことを子孫に当たるという一青年に尋ねられたそうであるが、「何かわからない暗い部屋なので取り壊してしまった」ということだったそうである。まことに残念なことである。