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面河村誌

(八) 神社の統合

 明治四十一年(一九〇八)神社の行政官庁たる内務省(神社庁)は、末端無資格社の統合を打ち出した。当村(杣川村)も、杣野分一社、大味川分一社に統合された。この決定は主として、神社財産の多少によったものである。
 杣野分の渋草・前組・相ノ峰・大成の各社は、笠方八社神社へ、大味川谷の、若山・相ノ木・中組の各社は本組の八幡神社へ、それぞれ統合、合祀された。
 深夜、松明に照らされて厳かな神事、宮太鼓の響きも悲しく、たくさんの氏子に見送られ、御神体を移したのである。集落の氏神でも、集落民の苦心の末創設した神社も、お上(内務省)の方針に抗すべくもなく、涙をのんで別れを告げたのである。あとに残ったのは骸の社殿、鎮守の森の木立ちである。
 昭和二十年太平洋戦争終結に伴い、神社の運営は、国家行政の外におかれ、すべての神社のさまざまな格式等級も解消され、それぞれ独立した神社となり、昭和二十一年(一九四六)十一月、それまで、合祀されていた御神体も、四十年ぶりに、氏子の出迎えを受けて、故宮に祭られ、今回に至っている。合祀の時の宮司は菅正克、復帰の時の宮司は、小野義直であった。