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面河村誌

一 概 要

 面河川は、御三戸で久万川と合流して土佐に入り、仁淀川となって、太平洋に注ぐ。流域としては、南に開いているが、古来の面河村は全く陸の孤島であった。行政上は、久万代官所、松山藩の支配下にありながら、割石・井内峠の山並みが、道後平野に向かって、高くそびえ、いっそうその感を深からしめた。
 こうした土地に移り住んだ祖先の人々の移動は、相名峠から梅ヶ市・妙へ、割石峠から小網・市口へ、井内峠から前組へ、七島方面から本組へと、それぞれの経路を推測することができる。
 丸木柱に萱の屋根、囲炉裏に筵・玉蜀黍飯、これがその当時の暮らしのパターンであった。
 ここは伊予の地の果て、衣食住の自給自足、急傾斜の山畑で、死の直前まで働き、起伏に富んだ地形と労働、そして山菜の自然食、それがほどよく適応して、小柄だが強い生命力、健康を維持し、若者は、力石で体力を競い、素人相撲にその筋骨のたくましさを誇った。特に明治三十七・八年(日露)戦争には、難攻不落といわれた旅順要塞、東鶏冠山の攻略に第三軍の主力部隊として活躍した四国軍団の精鋭、予州健児、杣川男子も、それに名を連ねている。
 石鎚山と面河川・険阻な地形と急流・石鎚おろしの寒風・清き水・原始的な生活・天の配剤は、がん健なる百姓男を育てたのであろう。婦人もまた、妻であり、母であると同時に、百姓仕事の担い手でもあった。この地、この暮らしをこの世の唯一のものと達観した心の安らかさ、子供を多く産み、しかも母乳は豊富であった。
 玉蜀黍は、古くからこの地方の主食、何はともあれ、まず第一に、山林を切り開いて、玉蜀黍作りに専念した。そして、その作高は、貧富のバロメーター、出来秋には、家々のイナキに晴々しく架けられたのである。
 この玉蜀黍は一四九〇年代(明応時代)、コロンブスが、アメリカ大陸から、スペインに持ち帰り、その後約三〇年間に、全ヨーロッパに広がった。日本へは一五七四年(天正七年)、ポルトガル人が、長崎へ持ち来り、それが、九州・中国・四国へと伝わった。山畑の荒地によく育ち、飯・ハッタイ粉・ハナコ団子・牛馬の飼料としても広く利用された。特に、トウキビ飯は、この地方の代名詞のようであった。
 玉蜀黍に次ぐ主食は、麦・粟・稗などがあげられるが、昭和三十五年(一九六〇)政府は国民所得倍増計画を決定、高度経済成長政策開始の大波で、山村農業は一八〇度の変化を余儀なくされた。伝来の雑穀農業を捨てて、ある者は平地へ、工場へ、残れる人々も、土木工事、サービス業などへ転じた。それと同時に主食は、米となり、交通の発達は、消費物資の豊富な出回りを促し、高カロリー、高蛋白の都市型食生活に切り替わり、農家でありながら、野菜を買う状態にさえなった。まさに暮らしの一大転換ともいうべきである。