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面河村誌

二 電 燈

 一八七八年、アメリカ人トーマス・エジソンは、白熱電球を発明した。明治十六年(一八八三)、東京電燈会社が設立され、明治二十年一月東京市内に配電された。
 明治三十六年(一九〇三)、伊予水力電気株式会社が、松山に設立、初めて松山に電気の燈がついた。
 明治四十年(一九〇七)、上浮穴郡柳谷村落出に、水力発電所が新設され、松山方面へ送電した。しかし上浮穴郡内は、その配電を受けることなく、久万町に電気の燈がついたのは、大正四年(一九一五)久万電気株式会社が設立されてからである。
 昭和十年大味川本組の、高岡輝吉(村会議員)らが中心となって、本組部落の事業として、当時の仕七川村竹谷から、くるすの峠を越えて、電線を引き、本村で初めて、本組に電燈がついた。
 松明から油(菜種油)・ローソク・石油(ランプ)と移り変わった燈の変転も、現在はほとんど、螢光燈に定着した。
 このように、当村の電燈は、昭和十年から逐次村内に及んだのであるが、それよりさき大正九年(一九二〇)二月、自家用電気が渋草の一部に点燈された。
 当時のインテリ、新進気鋭の実業家重見丈太郎(村会議員)は、割石川の水を利用して、水力による発電をなし、動力として製材、その余った電力をもって、役場・巡査駐在所その他に点燈し、さらに芝居・活動写真(映画)などの興行の際にまで電燈・電気を供給した。
 しかしこれは、重見丈太郎の勇み足であった。電気事業法違反であり、昭和九年十一月、監督官庁の広島逓信局から電力の供給を中止するとともに右供給した事由、点燈場所を詳記せる仕末書の提出を求められた。
 これも当時の先駆者重見丈太郎と電燈に関する一つのエピソードである。

当時の新聞広告

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電第一三二号

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