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面河村誌

六 節約の布告

 藩政時代から明治新政府となり、行政は一新されたけれど、山村僻地の百姓の生活そのものは、旧態依然、新しい時代の恩恵を受けることは、日暮れて道遠しの感であった。
 まず入るを計って出づるを制す、しかもその暮らしは、一ロにいって、働いて、食って、寝るにすぎないものもあった。節約の一端をうかがうものに、大味川本組の明治十五年(一八八二)永代日記を抜粋して参考に供したい。
    節検ノ方々左ノ通定ル
  一 酒類ノ儀ハ小売店於テ帳附売方一切相禁し居酒等ハ素ヨリ不相成無余儀酒入用節ハ払方ノ見込ヲ立惣代ヨリ書付ヲ相添酒店に持お伺可申事
  一 遊芸等ノ儀ハ正月中卜内間相当ノ楽ハ致トモ二月ヨリハ一切相禁シ申事
  一 人別内間おごりケ間敷儀ハ勿論ナレ共節句祭礼ノ外ハ生海魚等一切相用ヒ不申事
       明治十六年二月六日
                   惣  代  松 本 百 蔵
                         外 五 名
                   議  員  中 川 勇 蔵
                   同     松 本 浅 次
                   組  長  菅   万太郎
   門松門杭ノ儀ハ枝松ニ限リ門松ハ樅、桧ハ堅ク禁其他ノ木ニテ相済セ可申(古に又)、
   但シ自分ノ持ニ有之桧樅松卜雖モ難ク禁ノ(古に又)
   犯ス者ハ其度々金拾銭ヲ徴集
これは、明治二十二年九月の申合せ事項である。
明治二十四年四月の申合せに次のようなものがある。
 当村内(註本組)ハ土地ノ割合ヨリ人員等モ追々増加致来候ニ付テハ薪等モ不足ヲ生ズル様相成ニ付向後寄留人ハ一切相断可申候定メ
   今般ノ規約ヲ犯シ自意寄留ヲ許シタル者ハ金五拾銭ノ罰金ヲ申付
其罰金ヲ申タリ共尚再度留置スル者ハ又五十銭ノ罰金ヲ附加ス
 寄留人ニシテ抱へ人ヲ置キ商売等ヲ致別ニ竃ヲ据置スル者ハ一ヶ年村税木代トシテ金弐円ヲ納付サシム
 なお、職人、日雇人の賃金も、集落協議の上、決定している。
 職人並日雇人日役本年ハ左ノ通来歳ハ村方組方申合ノ上当件ヲ適用ストセザルトハ其ノ時ノ申合セニ依ル
   一 男上賃一人役六銭下四銭
     女〃    四銭〃三銭
   一 職人一人役  拾三銭
 飼犬について次のような定めがある。
 手餌犬ハ当村(註本組)村内ニ四足(註四疋)ト相定メ此定ヨリ上ヲ餌ヒタル者左記条件ニ依テ処分ス
   但定アリタリ共餌ハサル餌トハ其組ノ勝手夕ルベシ 
  一 菅行野組一足 上西中通一足
    今  窪一足 岡田長谷一足
  前条ノ定メヨリ余分ヲ餌置ク者ハ一円ノ罰金ヲ申付犬ハ組長立会ノ上殺失スル事
    他組ノ分ヲ其ノ組ニ餌ヒタル等総テ犬ハ前記定ヨリ外ヲ禁ズ
 以上は明治二十四年四月の規約であるが、明治三十四年十二月、上浮穴郡参川村(小田町)には、飼犬契約書なるものがある。以下それを抜粋してみる。
   飼犬契約書
 一 今般飼犬取締ニ関スル部藩人民協議ヲ遂ケ左記拾ヶ条ヲ契約シ明治参拾四年拾弐月壱日ヨリ履行二決定シ后日異議ナキ為一同連署調印ス
   第一条 飼犬ヲナサント欲スル者ハ壱疋ニ付壱ヶ年五円ヅツヲ損害トシテ村内エ納付スベシ
   第六条 部落二於テ飼主ナク野犬トミナスベキ者ハ部落費ヲ以テ撲殺ス
   第八条 飼犬ノ為メ多分損害ヲ請ケタルモノハ組長二申出相当ノ損金ヲ申請スベキモノトス
   (この項は上浮穴郡小田町上川、竹内定往氏の提供による)
 明治三十三年旧八月十四日の部落(本組)総会の申合規約なるものがある。集落協同体の一端がうかがわれるので、これを付記したい。
    部落申合規約
  第拾条 揃イ方
   当組ノ者ヨリ相図トシテ大組長場備付ノ貝イヲ聞取ル得ル処迄至リ吹立壱番貝ニテ出席ヲ督促シ後壱時間及至壱時三十分ヲ経過シ弐番貝ヲ吹キ立ル支前同様ニテ貝吹キ其家エ帰リ来ルヲ限トシテ各組小組長ハ其部落内之出席人員ヲ取調不来者有ル時ハ罰則ヲ喫シ処分ス
  第拾参条 草履下駄ノ取締
   戸主タル者部落会又ハ分散寄合其他寄合ノ場所ニ出席スル際他人之草履下駄等ヲ履キ替ル事ヲ得ズ又自分ノ草履又ハ下駄ヲ隠ス支ヲ得ズ若替ル者是有ル時ハ罰則二喫シ処分ス
  第拾四条 寄合酒席ノ取締
   村方寄合之時酒席ニテ酔狂人出来タル時ワ其組之者集リ酔醒スル迄筵巻又ハ便宜方法ヲ以テ処分スルモノトス
  第拾五条 罰 則
   第参条ノ無断遅刻者 壱良ニ金弐拾銭
   第拾参条違反者   一度毎ニ片足拾銭 両足五銭 
    但被替品ハ品主ニ返サシム
  右条項確約之件承諾候也
   右明治参拾壱年旧八月十四日締結ス
 以上は大味川本組の永代日記による集落規約・申合せ事項の抜粋であるが、恐らく当時村内各集落とも、大同小異であったであろう。大味川六人衆以来、大味川村の庄屋の所在地として、多分に住民の自尊心も強く、集落の運営に並々ならぬ苦心のほどがうかがわれる。他に範たる心構えと当時の農民の暮らしの一端をも知ることができる。そして、その日記に、永代の文学を冠し、一〇〇年になんなんとする今日まで残している意義もまた大である。堅苦しさは当然として、一種のユーモア感さえある明治中世の模様を懐かしみ、感無量である。
 先哲の残した農民の生活史の一こまである。
  (ロ) 杣川村の節倹の実行
 明治三十五年(一九〇二)ごろは、明治三十七・八年戦争(日露戦争)の前夜でもある。軍備の拡充は、税金の重圧を余儀なくし、さらには、国民生活を圧迫し、国民はできうる限り、生活を切りつめざるをえない状態であった。
 村(杣川村)としても、時勢の推移にこたえるべく、進んで節約の布告をなし、村民の消費生活に、一段の主旨徹底に努めたものと考えられる。
    節倹実行ノ件
     説  明
  近年凶作及物価下落且ツ世ノ進歩ニ伴ハレ諸税金負担義務多端ノ場合貧富ヲ問ハス時勢二連レ奢ヲ重ズル兆ナキニ非ス示后ノ困難言ヲ俟ス依聊カ此ニ節倹ヲ加ントスルニアリ
  本按ハ日時ヲ延遷為スベカラサル必要ヲ感ス依而左記各項記載ヲ確守シ若シ之二抵触ナス者有バ相当資産ヲ有スル者ト傚シ議員職権ヲ以テ相当ノ処置ヲナスモノトス
  一 本規約ハ本年四月ヨリ励行シ向三ヶ年トス
  二 興行類一切右年限中ハ停止スルモノトス
  三 諸祭礼ハ総テ客ノ交通ヲ禁ス
  四 絹布類新タニ購入ヲ禁ス
  五 身元不相当ノ飲食並衣服着用ヲ禁ス
  六 佛事ノ場合ハ貧富二不抱酒用ヲ禁ス
  七 普請及年賀其他祝意ヲ表スル場合貧富二不抱酒肴奢ヲ禁ス
  八 不経済ト認ムル件ハ互ニ制シ公私ノ別ナク交互注意ヲ加へ示后公益ヲ計リ尚繁栄誓フモノトス
  九 諸勧係化物ハ一切右年限中謝断ス
    但シ従前ノ契約済ノ分ハ此限リニ非ス
  右各号異儀ナク確定候也
  明治三十五年三月廿一日 確定
   出席議員 菅   武 作 印  遠 藤 又 七 印
        松 本 光五郎 印  三 浦 民二郎 印
        八 幡 留 次 印  高 岡 繁 蔵 印
        友 田 敬次郎 印  高 岡 市 衛 印
        日 野 弁 次 印  石 川 房五郎 印 
 この文章で、「議員ノ職権ヲ以テ相当ノ処置ヲナス」とは、明治時代の言葉として、実に重々しく、その他、「貧富ヲ問ハス」「身元不相当」そして「相当資産ヲ有スル者」などは、当時の農民の生活のうちに、暗黙の格差があったことがうかがわれる。
 当時の村会議員が、議員みずからの提案で、国事の多端、しかも不況の中での生活改善に進んで取り組んでいた節倹の実行の具体的事項は、今においても銘すべきものがある。