データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

面河村誌

八 年の瀬

 季節の行事は、テレビのブラウン管、そして、デパートの売出しからやってくるこのごろである。
 明治時代から大正時代、生活は決して豊かではなかった。しかし、正月を待つ心になにか豊かさがあった。女子は皸だらけの手で大根を洗う。男子は山に薪を負いに行く。障子も新しく張り替える。夜も明けやらぬうちに、餅をつく杵の音が、あちこちから聞こえてくる。きれいな下駄を買ってもらった子供は、正月を待ちきれず、畳の上で履いていた。
 米屋・酒屋・金貸し、そうした連中が押し寄せて来る。守るも攻めるも皆必死の師走(十二月)の、大晦日、夜遅くまで、村々を提灯が行き交う、年の暮れの風景である。
 しかし、今は全く違う。暮らしが変わった。暮らし向きはおしなべて、その内容は嘘でも、結構になった。苦しさも、そこは世間体、昔のような、一年の総決算らしい大晦日の攻防は、薄らいだ。昔に比べれば、人生模様の薄らいだ年の瀬だからこそ、歌番組(テレビ)に、うつつを抜かすのか。
 今の正月らしさ、それは大晦日の夜のNHKテレビの「紅白歌合戦」と、新春の使者、全戸に配達される「年賀郵便」である。郵便、特に、「郵便はがき」による年賀の風習は、明治六年(一八七三)、初めて郵便はがきが発売されてからである。そして年賀郵便の特別扱いが全国的になったのが、明治三十八年である。
 昭和六年の満州事変をきっかけに、戦争の拡大につれ、物資節約の見地から、その廃止が検討され、戦時体制が強化された昭和十五年、特別扱いが停止され、太平洋戦争終了後の昭和二十三年に復活した。そして、お年玉付き年賀はがきは、昭和二十四年から売り出された。
 年賀郵便については、虚礼廃止・自粛などの論議がしばしば行われた。しかし「およそ虚礼でない礼はない」とは、ある人の見解、一般家庭でも、「礼節」は、ある意味で生活の知恵と同意語、生きる上で必要な儀礼かも知れぬ。年に一度の個性豊かな年賀状の字を読み、お互いの生を確かめあう、またなんともいえぬ楽しみであろう。反面、年賀状を書かないのは、人の道に反するなど、ばかげた論議にも、もちろん加担できない。
 昭和五十三年、全国の年賀はがき発売数は、二七億五〇〇〇万枚、それに私製はがきも加わるが、差し出される総数は、約二七億万枚とか。(国民一人当たり約二五枚)
 面河郵便局の、昭和五十三年の年賀はがき発売数は、四万九〇〇〇枚である。
 NHKテレビの、紅白(男・女)対抗歌合戦は、昭和二十五年十二月三十一日の放送が第一回で、昭和五十三年十二月三十一日の放送は、第二十九回目である。
 この生放送は、大晦日の夜を彩る国民的行事ともいえる。紅白を見て各地の除夜の鐘を聴き、お宮参りをするのが、現在の正月らしさの風景かも知れぬ。
 歌謡曲は、老いも若きも子供に至るまで生活に密着している。演歌に人生の哀愁を感じ、ロック調のリズムに若者の血潮をたぎらせ、熱情を発散させる。人気歌手のアクションに子供は夢中になる。
 紅白歌合戦は、歌手にとっては、その年の総決算である。古き人々は、改めてその息の長さを誇り、新人にとっては、その登龍門である。何百人の新人の中から、紅白の岸にたどり着くのは容易なことではない。毎年こうした新人歌手が、紅白に選ばれて涙を流す。これも、もっともなことである。