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美川村二十年誌

第二節 地勢・地質

 四国山脈は四国の島の中央を東西に貫いていて、一八〇〇㍍を越す高山が、所々に聳えている。中でも徳島県の剣山(一九五五㍍)と愛媛県の石鎚山(一九八二㍍)は東西の雄で、石鎚山は関西一の高山である。大きな川は縦谷となって山脈に平行して東西に流れ、あるいは山脈を南北に横切って横谷を作り、急流飛瀑をなして流れている。
 その四国山脈は石鎚山から西と南西に主脈を分けて走る。上浮穴郡はこの二つの主脈の間に挟まれた平均七〇〇~八〇〇㍍の山地である。西に向うものは三坂峠から中山への方向をとり、しだいに低山性となって佐田岬半島に終る。南西に向うものは愛媛・高知の県境から上浮穴郡南部に一五〇〇㍍を越える高峻ないくつかの山を連ねて、東宇和郡につづいている。
 美川村は高知県境の山脈から西に支脈をのばした三光ノ辻山(一二一五,八㍍)から四辻ノ森(一二〇一,五㍍)の稜線で北の面河村と境し、東を高知県と山脈で境している。この山脈中で中津山(一五四〇,五㍍)は明神山とも呼ばれて最も高い。この山の西の山裾を北から南へ面河川が流れているが、この河谷を距てて西南に大川嶺(一五一一五,五㍍)が聳えており、この二山を結石線が美川村と南に隣る柳谷村との村境となっている。大川嶺の南には笠取山(一五六二,四㍍)から雨霧山(一二四五,八㍍)、つづいて小田深山、大野ケ原など上浮穴郡南部の高山地帯を形成している。
 大川嶺から西の狼ヶ城山(一三八一,五㍍)を結石線が美川村と小田町との境界となり、その稜線づたいに久万町との境が北にのび、やがて久万川を渡り、なお北から伸びた稜線づたいに久万町と境いせられ、これはやがて東北に方向をとって四辻ノ森からのびた面河村との境に連なる。
 美川村はそのように北と東と南を一二〇〇㍍を越える山脈にふちどられ、西の久万町との境は七〇〇~八〇〇㍍の稜線となっている。美川村のだいたい八〇〇㍍以下の山地は面河川の主流と支流が縦横に刻んで流れている。久万川の主な支流としては有枝川・大川かおり、面河川には東川・直瀬川・久万川・黒藤川が流れ込んでいる。これらの支流は各所で名もない多くの支流を合せ、屈曲して流れ去り、わずかな平地があれば集落と水田を作り、傾斜地は畑・山畑とし、山地は緑一色の見事な植林で覆われている。
 美川村の地質は西南日本を縦断する中央構造線が北四国を東西に走る南側(西南日本外帯)にあたり、いろいろな時代の地層が帯状にならび、あるいは交錯して、日本でもめずらしい地質の見本のような複雑な様相を呈しているが、大川嶺の峯つづきの地芳峠(一〇八四㍍)で約二億年の昔、古生代の海にすんでいたボウマイ虫の化石がとれることなどから、当時は海の底にあったものと思われる。其の後の火山活動による地殻の変動で一億年以上も前に陸地になり、さらにたび重なる地殻の変動によっていろいろな地層がいりくんでいるが、ほとんどは秩父古生層に属し、結晶片岩類の上に四千万年前の久万屑群、千数百万年前火山からふきだした石鎚層群という火山の噴出物による地層からできている。面河川や久万川の流域は三回の間氷期に氷河にけずられて、大体三段の段丘からできており、集落もこの段丘の上にあり田畑として耕作しているところが多い。仕出ヶ岳洞や黒岩洞ができたのも氷河によるものであると思われる。また御三戸獄のような結晶片岩と石灰岩の断層もいたるところで
みられる。
 土壌は主として壊土および砂壌土であるが、結晶片岩類は風化しやすく、山くずれが多く、国道でも仁淀川沿いでは危険にさらされている所が多い。
 岩屋山を中心として久万層群に属する礫岩帯があり、かつて石鎚山が火山活動をしていた頃、火口から流れてきた熔岩と、火口からふきとばされた石ころが集まってできた集塊岩の層が何回か重なりあって美観を呈している。また大川嶺のような火山岩の山では、頂上付近は比較的なだらかで、カルスト地形をなしているが、おんじとよばれる土で植物の生育は悪く地すべりに似た現象をおこす。杉の植林や草地を利用しての牧牛、冬のスキー場としての利用など産業・観光・スポーツ面での活用につとめている。