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美川村二十年誌

一、愛媛県の誕生(明治六年)

 明治四年七月一四日に廃藩置県が行われて全国に三府三〇二県ができたが、これらはもとの藩の名をそのまま県名としたもので、伊予国にも西条・小松・今治・松山・大洲・新谷・宇和島・吉田の八県ができた。しかし藩には大藩・小藩があって広さもまちまちで、新谷藩などは領域がまとまっていなかったから、このままでは行政区画としては不十分であった。
 それで同年一一月一五日に全国が三府七二県になったとき、伊予国では松山以東の四県を合せて松山県とし、大洲以西の四県を合せて宇和島県とする二県に統合した。だが、松山・宇和島の名はもとの藩の感じが強いので明治五年二月九日に松山県を石鉄県、六月二三日に宇和島県を神山県と改めた。これは松山県のほぼ中央にあって四国一の高山である石鎚山と、宇和島県内の出石山をむかし「矢野の神山」と呼んだということから名づけたものである。
 しかし、この石鉄・神山の二県の名も一年そこそこで明治六年二月二〇日に二県を合せて愛媛県となった。愛媛という名は日本で簸も古い史書である古事記に、伊予国は「えひめ」という女神の住む所と記してあることから取ったものである。この愛媛県は九年八月一二日に全国が三府三五県にまとめられたとき、讃岐国を合せた広い愛媛県となったが、一二年たった明治二一年一二月に讃岐国が分れて香川県を復活し、伊予一国をもって愛媛県とするもとの姿にかえった。