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美川村二十年誌

二、大区小区制(明治五年)

 伊予国には古くから宇摩・新居・周布・桑村・越智・野間・風早・和気・温泉・久米・浮穴・伊予・喜多・宇和の一四郡があって、その下に藩政時代に一、〇〇〇余の小村があったが、これがそのまま明治に引つがれた。これらの村は一村六〇戸から七〇戸くらいのものが多かった。 新政府は明治五年一〇月一〇日に、この郡村の行政区画を改めて大区小区制を定めた。これは人心を一新することと、前年に布告した戸籍法を徹底させて徴兵令に備えるものであったとみられる。戸籍法は四年四月四日に布告されて、翌五年に戸籍が作られた。これが壬申戸籍と呼ばれるものである。それまでの戸籍は江戸時代の宗門人別帳を引ついだもので、身分ごとに別になっていたので複雑で、もし手落ちがあっても調べて改めることが困難であったのに対し、これは士族平民などの身分にかかわらず居住地によって作成している。そのため調査も容易で、正確を期することができた。
 大小区制はいくつかの村を合せて小区を作り、小区をいくつか合せて大区を作るので、だいたい三〇〇戸を一小区と見立てて設定した。石鉄県下を一八大区二一七小区、神山県下を一一大区七〇小区に分けたが、浮穴郡について見ると久万山分か第一七大区、平野郡が第一八大区となり、前者は一三小区に、後者は八小区に分けられている。藩政時代から引きつがれた浮穴郡の村名もわかるので記しておく。ただしこれは松山藩領のみで、大洲藩・新谷藩領の浮穴郡は神山県下に入れられている。
 第一七大区(浮穴郡久万山二四村三、八六七戸)
  第一小区  二二八戸 北番村の内直瀬分
  第二小区  二五六戸 北番村の内相野分
  第三小区   二二二戸 北番村の内大味川分
  第四小区  三七一戸 東川村・七鳥村・仕出村
  第五小区  三七二戸 久主村・黒藤川村
  第六小区  二六八戸 西谷村
  第七小区   二二七戸 柳井川村
  第八小区  二四七戸 日野浦村・沢渡村
  第九小区  三三三戸 大川村・有枝村・黒岩村
  第一〇小区 二二二戸 畑野川村
  第一一小区 四二二戸 背生村・野尻村・久万町村
  第一二小区 三六四戸 入野村・西明神村・東明神村
  第一三小区 三三五戸 窪野村・久谷村
 第一八大区(浮穴郡平野部二三村三、四一四戸)
  第一小区  三〇四戸 河之内村
  第二小区  五七八戸 則之内村・南方村
  第三小区  五八六戸 井内村・上林村・下林村
  第四小区  二九七戸 吉久村・見奈良村・田窪村
  第五小区  四九六戸 上村・津吉村・中野村・東方 村・小村・河原村
  第六小区  三七八戸 牛淵村・野田村
  第七小区  三五七戸 浄瑠璃寺村・恵原町・西野村
  第八小区  四一八戸 高井村、森松村、井門村
 愛媛県となってから七年五月二〇日に一小区二、〇〇〇戸を目安として再編成を行なった。その結果、東の宇摩郡を第一大区とした一四大区三一一小区となった。浮穴郡久万山全域を第七大区と呼び、その中が八小区に分けられた。九年に讃岐国を合せた大愛媛県となると大区の数も二一となり、久万山は第一四大区となったが、その中の八小区の区域に変動はなかった。
 大区には区長、小区には戸長がおかれたが、戸長の主たる任務は戸籍の作成と管理であった。この区長・戸長にはこれまでの庄屋が任命された例が多いが、小区が基準戸数を目標として機械的に設定されたため、これまでの村と小区にはずれが多くて戸長と住民との結びつきが弱まり、親近感が失われた。大小区制というものが、長年の間、村の生活になじんで来た住民の感情を無視するという欠点を持っている以上、これは強固な自治の基礎とはなり得ない。そのために政府は、さらに新しい施策を講じなければならなかった。