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美川村二十年誌

第二節 新村の成立

 幾多の曲折の末二ヶ村半による合併の気運濃厚となり、三〇年一月一四日上浮穴郡町村会館に関係村の村長、助役、議長、副議長が参集して、合併促進の具体案作製につき審議がなされた。
 仕七川村としては三〇年一月一九日開催の協議会に臨む態度決定のための臨時村議会を前日の一月一八日に開催し、次のような統一見解をまとめた。
 一、基本財産中、利用伐期令に達したものは換金して、各旧村毎の公共施設の財源に充当する。
 二、役場位置が御三戸と定まったときは、教育文化施設の中心を仕七川におく。
 三、学有林、部落有林は村有名儀であっても実際の管理主体に処分権を認める。
 四、行政財産及び負債等は総て新村に引継ぐ。
 大要以上のようなものであった。
 翌一九日、弘形村伊藤旅館において、第四回協議会が開催されたが、この会は二力村半の合併を前提としたもので、そのため議題も新村建設計画案の樹立を中心として、全般的な討議が行われた。この会にも地方事務所長松野競朗の出席があり、大要次のように挨拶した。
 川下四ヶ村合併の線がくずれ、ニヶ村半合併の方向に近づいたが、将来共四ヶ村合併のための努力は続けてほしい。町村合併の障害となるものに各村の条件提示がある。こうした弊を廃して、あくまでも新村将来の発展のための妥当にして可能なものに留めてほしい。
 こうしてこの会は、柳谷村欠席のため、吉岡仕七川村長において進められ、細部については後で定める小委員会に委ね、おおむね次の様な決定があった。
 一、合併の形式は対等合併とする。
 二、新村名は後日命名する。
 三、役場位置は御三戸とし、仕七川村役場は文化的方面に利用する。
 四、支所は原則として設置しないが、当分の間、中津村役場と仕七川村役場を支所として利用する。
 五、役場庁舎の建築は、対等合併の建前からも平等負担が当然と思われるが、弘形村において敷地と建築費半額程度を負担する。ただし、この様な負担方法は新村将来の事業には適用しない。
 六、議員の選挙は新村第一回に限り、旧村毎の三選挙区制を採用する。定数は人口に按分するものとし、後で定める。
 七、役場職員は一応退職の形式をとるが、身分はそのまま存統し、将来の自然退職を待つ。
 八、自治功労者の表彰は旧村毎に行う。
 九、財産は利用伐期令級以上の立木については、各村毎に処分して公共施設の財源に充用する。その他の財産は無条件持寄とする。学有林、部落有林は所有指名儀の如何をとわず、従来の慣行に従う。ただし所有名儀は新村に引継ぐ。
一〇、国有林の払い下げに努力する。
一一、固定資産税率は新村均一とする。
一二、教育委員会、農業委員会は統合する。婦人会、青年団、消防団は統合に努める。
一三、小委員会は村長、助役、議長の各三名宛とし、三箇村の合計は九名で組織する。
一四、新村発足の目標を昭和三十年三月三十一日とする。
一五、村議会議員の任期は、原則として延長しない。
 その後二月一六日、上浮穴郡町村会館において、吉岡村長議長となって小委員会を開き、次の事項について内定したが、この小委員会は主に村長と議長(中津村は村長、議長共柳谷村に属するので、堀尾好光と助役の渡部一加が参加)によって進められたものである。
  (内定事項)
 一、合併協定書の調印の方法等の決定。
 二、新村村長職務代理者を弘形村長土居通栄とする。
 三、議員定数を二十三名とし、仕七川地区九名、弘形地区九名、中津地区五名と定める。
 つづいて二月一九日、弘形村に小委員会を招集、次のような取りきめができた。
 一、役場庁舎敷地五百七十坪と庁舎建築費の三分の一は、弘形村が負担する。
 二、役場庁舎予定地の県道下約五百坪を、弘形村に於て提供する。
 三、仕七川村の役場に、教育委員会事務局を置く。
 四、二箆小学校の改築、仕七川中学校特別教室の建築、黒藤川中学校運動場の拡張等を実施する。
 五、消防団は統合して、旧村毎に分団をおく。
 六、診療所の設置に努力する。
 七、公営住宅は昭和三十年度建築分から新村において建設する。
 八、国民健康保険事業を再開する。
  注、この当時実施していたのは中津村だけであった。
 九、国、県道改修について関係機関に働きかける。特に御三戸から境野隧道までの道路の拡巾、弘形・横河原停車場線(現在の美川川内線)改良、中瀬橋、七鳥橋の改良実現に努力する。
一〇、逆路は緊急の度に応じて改修する。
一一、かんがい施設、急傾斜地対策を具体化する。
一二、主要農林道十六線の改修工事を進める。
一三、村名を美川村とする。
 以上は小委員会での了解点であった。特に「美川村」の村名決定については、いろいろ案が示されたが、結局仕七川村会議長新谷優の提唱に係る美川村に落ちついた。その命名の理由は、面河川、久万川が合流して仁淀川に注ぐ三つの川の接点の「み」、役場庁舎は美川の中心ミミドにあって「み」、三つの村が合併して美しい村となるの「み」、山紫水明の自然美に囲まれた「美」、古来面河川は一名、味川とも称し上流には大味川があり、仕七川には古味があってミミドに注ぐ、などであった。また文学についても、美しく平和で豊かな村でありたいし、他にも町村名として例を見ない、とつけ加えた。
 いよいよ昭和三〇年二月二五日を以て次のような合併協定書が作成され各村代表者によって記名調印された。
   合併協定書 
 仕七川村、弘形村、中津村は次の条項により合併し、新村美川村を設定することを協定す。
   記
 一、各村は自己の利害のみにとらわれることなく、互譲共栄の精神を堅持して地方住民の共同福祉の最終の目的を理念として合併の実現を期する。なお、余剰財源を最高度に活用し、堅実なる財源を把握し建設の計画を樹立する。
 二、新村は、正しく、公平無私、円満なる行政運営を期するために、大同団結、全村親和協力を重視する。
 三、合併形式は対等合併とする。
 四、合併実現時期を昭和三十年三月三十一日とする。
 五、新村名は、美川村とする。
 六、新村役場庁舎は、起債を得て可及的速かに建築に着手する。その位置は大字上黒岩御三戸候補地とする。
 七、役場の仮庁舎は、旧弘形村役場とする。役場支所は徴税、戸籍、その他住民と面接の機会の多い事務を処理するため、本庁舎拡充の事情もあり、当分の間これを置く。
 八、議員の選挙区、及び議員の配当は、合併初年度に限り旧村の区域をもって選挙区を設ける。
   その定数は、仕七川村九名、弘形村九名、中津村五名、計二十三名とする。
 九、村長、助役、収入役は自然退職になるも、新村行政の円満なる運営を推進するため、本人の希望を尊重して適当なる職につくように配慮する。
   中津村の職員については、特に希望する者の外、属地主義により新村に引継ぐ。なおこの際退職する職員には、その退職手当等は旧村にて処理する。
   職員、雇傭人の給料は、新村発足後、適当なる時期に新村の給与ベースにより調整する、合併後一年以内に退職したるものに対しては、その退職手当については特に考慮すること。
一〇、自治功労者の取扱いは、旧村においてそれぞれ適当に考慮する。
一一、助役の定数は弐名以内とする。
一二、現在の大字は、原則としてそのままとする。
一三、学校通学区域は当分現状のままとする。
一四、急傾斜山岳地帯による植林事業、砂防工事、災害復旧工事、土地改良事業等、農村振興の継統事業は強力に推進する。但し、その財源は合併による余剰財源を基礎とし、堅実なる計画の下に遂行する。
一五、定時制高等学校については、新村により考慮する。青年学校は新村経営とする。
一六、教育委員会は統合すること。
一七、農業委員会は統合すること。
一八、国民健康保険を再開するものとし、中津村については引続き実施するものとする。
    昭和三十年二月二十五日
                弘 形 村 長  土 居 通 栄
                弘形村議会議長  城 山   元
                仕 七 川 村長 吉 岡 好 古
                仕七川村識会議長 新 谷   優
                中 津 村 長  政 木 茂十郎
                中津村議員代表  堀 尾 好 光
 ここにおいて、実質的には美川村が誕生したけれども、なお多くの形式が残っていた。
 以下は旧村に概ね共通するので、分村合併に踏み切った中津村について拾ってみると、先ず昭和三〇年二月二二日中津村臨時議会を招集して、中津村の分割案を議了した。
 その内容は大字久主と、大字黒藤川五千二百九十一番地から同七千四百八十一番地まで、併びに同七千五百十三番地から七千五百十四番地までを柳谷村に編入するとしたものであった。更に同年三月一日関係四ヵ村の臨時議会を柳谷村落出公会堂に招集、仕七川村・弘形村・中津村・柳谷村の順に次の議決がなされた。
 日程第一 字の廃止及び新設について
 大字を大字黒藤川と大字中津にして、大字中津には旧大字黒藤川一番地から五千二百九十番地および七千四百八十二喬地から七千五百十二番地までを含める。また大字中津には大字久主の全部と旧大字黒藤川五千二百九十一番地から七千四百八十一番地までと七千五百十三番地及び七千五百十四番地を編入する。
 日程第二 新村建設計画に関し知事の意見を聞くことについて
 この事は合併促進法に基づき、新村建設計画については、知事に対する協議義務を果すものであった。
 つづいて同年三月三日、中津村長政木茂十郎は午前九時臨時議会を中津村役場に招集、次の議案を提出して原案どおり議決された。この事は弘形村も仕七川村も同時に議会を招集して、概ね同様議案が議決されたのである。
 議案第六号 新村建設計画に関する協議について。
 議案第七号 仕七川村・弘形村及び中津村の区域の内大字黒藤川・大字沢渡の合併並びに中津村の区域の内、大字中津の区域を柳谷村に編入することについて。
 議案第八号 議員の定数に関する特例について。
 議案第九号 国民健康保険の特例について。
 議案第十号 議員の任期の特例について。
 議案第十一号 教育委員の任期、並びに定数の特例について。
 議案第十二号 農業委員の任期並びに定数の特例について。
 議案第十三号 国民健康保険の特例について。
 議案第十四号 合併に伴う財産の処分に関する協議について。
 の九議案であったが、その内容は次のようなものであった。すなわち第六号議案は新村建設計画について知事への協議の可否を問うものであるが、これよりさき三月二日附で知事久松定武から適当である旨の通知を受けているので、形式をふんだものと思われる。第七号議案は中津村の一部を美川村と対等合併し、一部を柳谷村に編入合併して昭和三十年三月三十一日から施行するよう知事に申請するものとする、とあり、第八号議案は美川村の議員定数は二十三人とする、とあって、二月一九日開催の小委員会決定に基づくものであった。九号議案は国民健康保険事業は、柳谷村に編入した地域を除き昭和三十五年三月三十日までは美川村が事業運営に当るとしたものである。
 また第十三号議案では、柳谷村に編入した地域は、柳谷村が国民健康保険事業を行うと定めたもの、第十号議案は旧中津村の議員の任期は、柳谷村に編入された地域の議員は旧柳谷村の議員の在任期間、柳谷村議員として在任するものと定め、第十一号議案は教育委員は柳谷村の教育委員として、旧柳谷村の教育委員の残任期間在任するものとし、第十二号議案は農業委員会委員も右と同様にしたものであった。第十四号議案は弘形村・仕七川村の財産は、美川村の設置と同時に美川村に帰属し、中津村の所有する財産のうち、大字黒藤川字ナカツ四千八百七十番地、同字ツラジロ四千四百十四番地・同字マツキ三千六百三十六番地の官行造林地七千二百八十四反一畝歩、及び大字黒藤川字ササミネ三千五百九十三番地第二、同字ナカコヤ三千五百四十八番地の第一、同ナカコヤ三千五百四十八番地第二、同マツキ三千六百二十五番地の六十五、同マツキ三千六百二十五番地の六十六、合計八筆の中津村村有林は美川村と柳谷村が共有することとし、その他の財産は柳谷村・美川村両村へ属地主義で所有権を帰属せしめることとしたものである。尚この外、前述したもの以外の財産は次のとおり、帰属と決定した。
 起債未償還額壱百五万六千円中、五十七万六千円は柳谷村に帰属。四十八万円は美川村に帰属。
 本年起債計画額三十八万円は美川村に帰属。
 有価証券中、日本勧業銀行株二十七株は美川村に帰属、同銀行株七株は柳谷村に。
 現金 千三百二十二円は美川村に、同千三百二十二円は柳谷村に引継ぐ、としたものであった。
 ちなみに仕七川村・弘形村が新村に持ち込んだ村有林の主なものを概観すると、仕七川村持込のもの、
 一、東谷団地(カゲムキ)実測二十一町五反。
  大字東川三番耕地五百四十九番地の一 外四筆土地台帳面積 三町六反七畝三歩
 二、東谷団地(ヒムキ)実測三町五反歩
  大字東川三番耕地五百四十四番地外三筆 土地台帳面積 二町七反六畝八歩
 三、マルミヤ団地 実測十六町三反九畝歩
  大字仕出二番耕地八百五十七番地外二九筆 土地台帳面積 七町八反三畝九歩
 四、カギヤモリ団地 実測十二町三反歩
  大字七鳥二番耕地七百四十二番地外一筆 土地台帳面積 四町六反三畝十九歩
 五、シクヤマ団地 実測 三十一町歩
  大字東川一番耕地千十番地外十七筆、台帳面積 六町二反六畝歩
 六、コヤガタニ団地 実測三町八反七畝歩
  大字七鳥一番耕地五百二十二番地、外二筆 土地台帳面積 一町一反八畝二十七歩
などであった。
 弘形村持込のもの
 一、本谷山団地 実測 二町八反歩
  大字有枝 字木谷 八百九十五番地、外二筆 土地台帳面積 九反一畝三歩
 二、官行造村地 御山団地 実測百十六反七畝
  大字日野浦 乙三百五十番地のI、外一筆 土地台帳面積 十四町八反九畝歩
 三、官行造林地 カマゲタ山団地 実測 百六十二町四反歩
  大字日野浦乙 二千二百九十八番地
  土地台帳面積 六十町歩
等であった。
 いよいよ昭和三〇年三月三〇日、過去六七年の長きに亘る仕七川村・弘形村・中津村半分の歴史を閉じて、ここに新らしい美川村の誕生を見たわけである。
 三月三一日新村は発足したが、これからが大変である。新村長・村議会議員の選挙・役場の組織作り・各種団体の統合の問題・新村建設計画譜の樹立・役場庁舎の建設・条例規則の制定・合併協定の具体化等々山積する諸懸案の早急な解決などであったが、これらについては別項に譲り、新村の誕生の項を閉じることとしたい。