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美川村二十年誌

第三節 国民健康保険事業会計の概要

 合併前は中津村だけが国民健康保険事業を実施していたが、合併を契機に昭和三〇年より全村的に事業を開始したものである。昭和三〇年の収支決算額を見ると、歳入で五八三万四〇〇〇円、歳出五八三万四〇〇〇円で一〇〇〇円未満に若干の差があるが大体同額であった。当時の国民健康保険税は一七五万三〇〇〇円、保険給付残は五二七万三〇〇〇円であった。この裏付財源が国庫負担金であったことは今も同じであるが、昭和四〇年には歳入三、二七五万三〇〇〇円、歳出三、〇三三万八〇〇〇円とふくれあがり、さらに昭和四七年度決算では歳入八、九七八万六〇〇〇円、歳出七、六九七万六〇〇〇円に膨脹した。この年の国民健康保険税は一、七一二万二〇〇〇円、保険給付費は六、五三一万九〇〇〇円であって、同庫から受入れた金額は五、六七四万二、〇〇〇円であった。また昭和三〇年の収支も僅かではあるが四三七円の黒字であり、三一年度は三一八円の黒字、四〇年度は二四一万五、〇〇〇円の黒字と、毎年健全な財政運営がなされた。なお国民健康保険税に於ても村税同様に報奨金制度を続けているが、この報奨金の財源は一般会計からの繰出金から支出し、国民健康保険事業には何等の影響を与えない様措置しつつあるし、また老人医療・零歳児医療の無料化に伴なう歳入歳出もすべて一般会計によって処理し、国民健康保険会計には何等影響しないものである。
 さて、美川村が発足した三〇年の歳出決算額が三、七一一万一、〇〇〇円、人件費の総額が一、三一一万四、〇〇〇円であったのに対し、一八年後の四七年には歳出決算額で四億五、八一一万四、〇〇〇円。このうち人件費総額は一億一、六三七万七、〇〇〇円にふくれ上っている。また合併当時の村税収入一、三四二万一、〇〇〇円、交付税は九九二万二、〇〇〇円であったのに対し四七年度は村税二、六二八万四、〇〇〇円、地方交付税二億〇、〇三五万一、〇〇〇円となっている。
 昭和三四年に上黒岩の岩瀬戸橋が架橋されたが、この事業費総額は二一八万五、〇〇〇円であった。当時同道から数えて三つめの橋脚に岩盤がなく、やむを得ず松丸太一六本を打込承その上に橋脚を樹てたが、この橋脚が四三年の洪水で露出したので、四四年にこれの根巻工事を行なった。その事業独が、なんと二一八万九、〇〇〇円であった。橋全体と橋脚一本のしかも根巻工事だけがほぼ同額である。また当時の村債は五四〇万円であったが、昭和四七年末には八、四二〇万円となった。貨幣価値は低下の一途をたどったとは言え、僅か二〇年を経た今日、まことに今昔の感にたえない。