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美川村二十年誌

一、明治中期における基本財産の蓄積

 財産には、不動産・動産・物権・無体財産権・有価証券・物品・債券・基金等々が含まれるが、ここでは主として不動産のうち財政力に最も影響の多い村有林にしぼり、合併後の購入分については不動産の全体について集録する事にしたい。
 明治二一年の黒藤川村外二ヵ村の決算書によると雑収入として二四一円九〇銭二厘が計上されているが、これは不動産収益であるし、また明治二七年九月、時の上浮穴郡長加藤純次郎は「凡そ町村の喪用は財産より生ずる収入を以て之に充て、尚足らざる場合に於て謀税により之を支弁すべし」(以下略)と町村に訓令を発して居り、この頃は主として決算剰余金を積立てるようにとの主旨であった。その後、国に於ても造林の必要性と治山治水の観点から造林補助金制度を作って植林の奨励に乗り出し、各町村も村有林造成に力を注ぐようになったようである。
 明治四四年三月の中津村基本財産台帳によると、中津村公有林は大字黒藤川字ノヂ以下三三筆、台帳面積七三四町四反二畝二九歩、大宇久主一筆六反歩、大字沢渡一筆三反歩、合計三五筆七三五町三反二畝二九歩、この外に組持として久主持四〇筆、鉢部落持一八筆、黒藤川持二三筆、同部落のうち本組持九筆、二箆持八筆、沢渡持三筆がそれぞれ小字別・地目地祇別に記録されている。以上で類推されるように、当時の村有財産の所有形態は純村有、或は部落有、その他社寺学校等にその所有管理処分権を委ねたもの、さらに入会林野として共同利用に供したもの等令各町村でまちまちのようであるが、その施設、たとえば学校管理のための学校基本財産として積立たものなど仕七川村と中津村は非常に類似しているが、弘形村の財産台帳には山林は調査不充分のためか、駐在所の敷地と弘形校の敷地合せて二四四坪の外は記録を見る郡ができない。これを現時点で察するに、当時は部落有財産としてその管理処分権を認め、村有林は保有しなかったものではないかと思われる。
 さて中津村の財産であるが、その後明治四四年五筆、同四五年二五筆、大正二年六筆、大正三年及び同五年各一筆が買い足されたようである。その基本財産はその後、どのように処分されたのであろうか。
 大正六年六月二〇日付郡役所よりの「韮本財産補填台帳調整に関する件」と言う見出しの照会に対し、次のように報告がなされている。
 財産には、不動産・動産・物権・無体財産権・有価証券・物品・債券・基金等々が含まれるが、ここでは主として不動産のうち財政力に最も影響の多い村有林にしぼり、合併後の購入分については不動産の全体について集録する事にしたい。
 明治二一年の黒藤川村外二ヵ村の決算書によると雑収入として二四一円九〇銭二厘が計上されているが、これは不動産収益であるし、また明治二七年九月、時の上浮穴郡長加藤純次郎は「凡そ町村の喪用は財産より生ずる収入を以て之に充て、尚足らざる場合に於て謀税により之を支弁すべし」(以下略)と町村に訓令を発して居り、この頃は主として決算剰余金を積立てるようにとの主旨であった。その後、国に於ても造林の必要性と治山治水の観点から造林補助金制度を作って植林の奨励に乗り出し、各町村も村有林造成に力を注ぐようになったようである。
 明治四四年三月の中津村基本財産台帳によると、中津村公有林は大字黒藤川字ノヂ以下三三筆、台帳面積七三四町四反二畝二九歩、大宇久主一筆六反歩、大字沢渡一筆三反歩、合計三五筆七三五町三反二畝二九歩、この外に組持として久主持四〇筆、鉢部落持一八筆、黒藤川持二三筆、同部落のうち本組持九筆、二箆持八筆、沢渡持三筆がそれぞれ小字別・地目地祇別に記録されている。以上で類推されるように、当時の村有財産の所有形態は純村有、或は部落有、その他社寺学校等にその所有管理処分権を委ねたもの、さらに入会林野として共同利用に供したもの等令各町村でまちまちのようであるが、その施設、たとえば学校管理のための学校基本財産として積立たものなど仕七川村と中津村は非常に類似しているが、弘形村の財産台帳には山林は調査不充分のためか、駐在所の敷地と弘形校の敷地合せて二四四坪の外は記録を見る郡ができない。これを現時点で察するに、当時は部落有財産としてその管理処分権を認め、村有林は保有しなかったものではないかと思われる。
 さて中津村の財産であるが、その後明治四四年五筆、同四五年二五筆、大正二年六筆、大正三年及び同五年各一筆が買い足されたようである。その基本財産はその後、どのように処分されたのであろうか。
 大正六年六月二〇日付郡役所よりの「韮本財産補填台帳調整に関する件」と言う見出しの照会に対し、次のように報告がなされている。
    記   (原文を人示して示す)
基本財産処分金額 処分の目的 処分議決年月日  補填年度
  金六百円也  二篦分教揚 明治四十三年  自大正元年
             建築費     三月十五日 至大正十年
  金千四百円也 沢渡分教場 明治四十三年  自大正三年
             建築費     三月十五日 至大正十一年
  金七百円也  学校建築費 大正二年    自大正二年
                    八月二十七日 至大正十年
 金五百四十四円 沢渡鉄線吊 大正五年    自大正八年
  九拾四銭八厘 懸橋工費   一月二十七日 至大正八年
 以上で見るように基本財産は蓄積目的にしたがって処分され、やがて昭和三〇年の合併を迎えて残り財産が美川村に持込まれたわけである。