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美川村二十年誌

一、米

 昭和一七年一月に、「国民の食糧確保と国民経済の安定を図るため、米の需給調整と配給の統制を行なう」という目的で食糧管理法が制定せられ、農家は強制的に供米の割当を強いられ、いっぽう消費者には配給制度が実施された。食糧管理法は食糧の確保が本来の目的であったが、時代の移りかわりとともに現在では農業生産者の保護のための法律として存続している。
 この間、米価は二四年八月発足の米価審議会(消費者代表、農協団体代表及び学識経験者代表等三二名で構成)の答申もあって二五年は農業パリティ指数によって米価を決定し、三五年に生産者所得補償方式による米価に改められ、年と共に上昇し、三一年玄米六〇㌔当り三,八〇八円であったものが、四八年には一〇,三三六円となった。
 昭和三〇年、美川村初代村長土居通栄による農業政策大綱の中に、東古味の開田・日野浦のかんがい用水路の改修・沢渡部落への道路開設がかかげられたが、安定した収穫は水稲であって、黒藤川・仕七川方面の畑作地帯や、食糧自給のともなわない農家は経済的に不安定を免れなかった。これらを解消することは、たとえ国内食糧事情は好転したとしても当村にとっては重要な課題であるとして二代新谷優村長の発足二年目の昭和三五年に至って、先ず長瀬の字ダバに約三町歩の開田を実施し、翌三六年東古味一円と二箆一円に、合せて四〇町歩の開田を計画した。
 当時既に食糧増産時代も過ぎ、農業政策の転換期であったため国の援助もなく、ただ灌漑施設に国の補助金が流れるだけであったが、農業近代化と農地集団化を拠りどころとして、区画整理の名のもとに国の低利融資事業として工事を施行したものであった。今にして思えば久万土地改良課の指導と、地元土地改良区の協力が事業推進の大きな力となっていたことに敬意を表する次第である。
 然しながら、結果は長瀬に約三町歩、東古味に九町歩余、二箆約一三町歩の開田に止まったに過ぎず、二箆土地改良区に内紛等もあって、現在ではその多くが休耕状態にあることは遺憾の極みである。この間において、非常な努力を払った久万土地改良課愛媛県技師宮内忠勝、および地元土地改良区の相原幸吉・団上貢・竹崎嘉愛らの各理事長に、改めて深く感謝を捧げたい。
 いま年次別政府統制米価を表示すると前ページのとおりである。
 数字を並べただけでは、何の抵抗も苦労もなかったようであるが、米価が国民経済に及ぼす所は大きい。公共性の強いものだけに、国としては賃金物価の悪循環を断ち切りたいであろうし、消費者は消費者の立場から価格のすえ置きを願うし、いっぽう農業者団体は再生産に見合うように引上げを要求して毎年農民代表を東京に送り込み、涙ぐましい戦いが繰り返されて来た。おそらく今後も当分はこのような要求が繰り返されるであろう。

年次別政府統制米価

年次別政府統制米価