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美川村二十年誌

五、その他

 とうきび(玉蜀黍)は、昭和二五年頃まで主食としての地位を保っていたが、主食が麦に移り、さらに米に代っていくにつれて、作付面積も昭和三五年の一、三二〇反(一三二㌶)に比し、昭和四五年には六三〇反に減少したし、また内容的にも青刈飼料用、或は焼とうきび用の蔬菜的目的に変った。長い間、とうきびと麦が主食の地位を占め、秋はどの部落もとうきび稲架で、だいだい色に映えたものであったが、今では国道三三号線沿いには田渡野瀬部落に家畜の飼料用として若干往時の面影を止めるのみである。麦は秋冬作の作付可能な所に、水田といわず畑と言わず、山畑に至るまで作付された。いわゆる伐替畑なども焼畑に耕されて蒔きつけされ、とうきびと共に本村の主な農作物であった。この作物は除草に大変な労力を要し、そのうえ、さび病等も大発生することがあって、農作物中で最も引き合わないものであった。主食が米に代るに至ったので、裸麦の如きは全くその影を止めず、僅かに粉食自給用としての小麦が散見されるのみである。その他さつまいも・じゃがいも・あわ・そば・大豆・小豆等もかなり生産されていたが、自家用としてのそれを残し蔬菜代りとしてのじゃがいも、葉たばこ跡地利用のそばが名残りを止めるに過ぎない。
 焼畑とは伐替畑であり、農作と山林原野が順次入れかわっていくものを指すが、その主な作物は麦・とうきび・そば・あわ・大豆・小豆であった。春はとうきび山、夏はそば山、秋は麦山と、その時期に応じて毎日のように山焼きが行われ、山焼きの前には、駐在所に山焼願い(山林火入願)を出して許可を得、当日は隣地地主の応援などによって焼き払い、火がおさまる頃となると用意した焼酎を飲みながら残火の消えるのを待って、日暮れて下山したものである。
 こうして山畑を造成して作物を作り、あまり収量が得られないようになると、みつまたを植え付ける。そのみつまたも株切れ等によって生産が減少すると再び荒れるに委せて、十数年または数十年を経て地力が回復した頃を見計らって再び焼畑とし、これを繰り返すのが伐替畑の特質である。それが造林の普及によりみつまた跡地、或はみつまたの中へ杉桧を植林し、最近ではこの中間の農耕を止めて雑木伐採跡も、植林の跡地も直ちに造林されるのが実情である。
 工芸作物中、本村における現金収入源として最も依存度の高かったのはみつまたであるが、その生産量等については農業協同組合の項にゆずり、ここではその態様を簡単に記しておきたい。みつまたは明治に入って移入され、大正から昭和初期に最も盛んであった。一度植付けると長いものは四〇年も株が持続したが、再植・再々植に及ぶにつれ株腐り(もんぱ病)の蔓延のため植付二年目頃から病害に冒されるようになり、昭和中期以後は造林熱の高まりと相まって急激に減少したものである。春は山の斜面一帯を鮮かな黄色にいろどったみつまた畑も、今では熟畑にわずかに密植栽培を見かける程度になってしまった。昭和三五年に五〇八㌶、四〇年に一四八㌶、四五年に八一㌶となり、この八一㌶もみつまた単作ではなくて杉桧の中に残留するものの収穫が主である。やがて姿を消す作目となるであろう。
 この外にのり(黄蜀葵、本名とろろあおい)こんにゃく等もあるが別項にゆずりたい。

年次別農業統計(市町村統計要覧より)

年次別農業統計(市町村統計要覧より)