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美川村二十年誌

一、畜産の推移

 従来馬は主として輸送機関とし、牛は農耕用として必要とされたが、道路の開通と自動車におされて、馬はその存在価値を失い、牛は耕転機にとって代られて現金収入源としての育成と肥育に目標がしぼられた。
 合併直後はまだまだ農耕用としての必要もあって、昭和三五年に牛八〇一頭を数えたが、四五年には四五〇頭となった。かつて上浮穴畜産組合連合会の宮崎大元課長は御三戸牛市(品評会)を評して、ぬき牛(牡去勢牛)の粒揃いでは関西随一と豪語していたが、そのとおり一五〇貫(約五七〇㌔)もの小山のような牛が群がり、遠く大阪方面からの買い手も加わり昭和三五年の出品頭数六八〇頭という盛況であった。今もなおその面影が残っているけれども昭和四八年、久万農協の合併発足に伴い美川村・柳谷村・面河村の三箇村合同の畜牛品評会を開いた時の出品頭数はわずかに八一頭、当日取引されたものは二〇頭に止まった。
 牛は本村では経済的に大きなウエイトを占めるものであり、そのため歴代村長・農協長らは振興策に色々腐心したものであるが、その流れを概説すると仕七川方面は主として育成であり、弘形方面は肥育であったし、黒藤川方面は仕七川地区に類似していた。
 その後、素牛となる仔牛が高価となった事もあり、いっぽう安定した収入を得るために昭和三〇年合併後、それまで仕七川村で実施していた仔出し牛の村の預託事業を再開し、田渡・父二峰方面から血統正しい種牝牛を導入して希望者に預託した。その方法は多少の変更はあったが、導入した牝牛を希望者に預け、生れた仔牛を村が引取ることによって親牛は飼育者に帰属する。村が引取った牛は同様条件で新しい希望者に預託し、逐次頭数を殖やしていく事にしたものであった。しかし、村内の仔出牛の数はいっこうに変らず、預託が殖えると自営が減って三〇ないし四〇頭を上下して、成果の見るべきものがなく、昭和四一年度を以て実質的に打切らざるを得なくなった。その後、一頭飼育では引合わないとして多頭飼育の奨励も行ったが、今残ってこれを実施しているのは東古味の伊藤光義の五〇頭飼育だけではないかと思われる。
 そこで思い立ったのが四国カルスト地区国営草地改良事業であるが、それよりさきに村が施策として打ち出したものを簡単に述べると、生産牛の奨励、つづいて素牛購入に対する利子補給制度の採用、さらに昭和三三年新農村建設特別助成事業によって役場の下方に家畜管理所を建設し、正量取引促進のため牛衡器を設置した。その後、一頭飼育から多頭飼育に移行すべく東古味に多頭飼育センターを建設した外、農協が勧める預託牛の奨励の片棒をかつぐなど、色々と手を尽したが輸入肉と飼料の高騰・流通機構の隘路等のためか年々減少の状態にある。
 その他鶏・豚・山羊等もあるが、鶏は久主下りの平岡篤全が企業的経営を行っている外、おおむね自家用採卵のための飼育であり、豚も養豚団地造りの気配があったが畜産公害の関係で流れ、山羊も山羊乳自給のためのものが散見される程度で見るべきものがない。