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美川村二十年誌

第二章 交 通

 交通機関としては、一般乗合自動車では日本国有鉄道の運営する国鉄バスと、伊予鉄道株式会社の運営による伊予鉄バスであり、また、タクシー業としては美川タクシーがある。
 このほかに昭和四〇年ごろから大衆化してきた自家用車があるが、現在は一戸一台と言って過言でないほどに普及してきた。そのため乗合バス、或いはタクシーの利用者は大幅に減ってきた。
 昭和三三年当時の道路は国道以下すべてが道幅が狭く、カーブの多い砂利道であった。松山へ行くにも、御三戸から松山までバスで三時間を要した。途中の三坂峠付近は難所とされ、夏は車窓をあければ砂塵になやまされ、途中での諸車の離合もわずらわしかった。お互いに道を譲らす、運転手どうしのにらみ合いがあり、時には暴力沙汰になることさえあった。このような状態で、無駄な時間を費していたものである。
 国道の改修が進み二車線となり、昭和三七年一月二〇日、松山・高知間に特急バスが運転され、その能力は一四人乗りのワンマンバスで、一日五往復であった。途中の停車駅は落出の休憩だけであった。
 昭和四〇年七月一五日には、国道改修完了に併せ、従来の小型特急バスを改めて大型四八人乗りの急行便が走るようになり、最初の停車駅は久万と落出であったが、やがて御三戸にも停車するようになり、以前の松山・高知間の五時間が現在では僅か三時間二〇分に短縮された。
 伊予鉄バスは久万~面河・久万~水押間を畑野川、或いは御三戸経由で運転されていたが、国鉄バスの面河乗入れと同時に松山~久万間にも伊予鉄バスが運行されることとなった。また国鉄バスは、昭和四二年一〇月八日に地元民待望の落出~二箆間の運行を開始した。この開通式は古床で行なわれ、また祝賀式は二箆小学校で関係者多数出席のもとに盛大に行なわれた。第一便が二箆へ向う沿道で住民は小旗を振って喜び、終点の二箆では小学校児童が鼓笛隊で迎え、異口同音に喜びあった。なかでもこのバス乗入れに長い間、地元世話人として苦労された役員達が涙ながらに喜びあっていたのは、特に印象的であった。
 また昭和三六年には美川スキー場へのスキーバスの乗入れが開始された。スキーシーズン中、土・日・祭日に一日三便が運転され、現在は二便となっている。
 道路網としては県都松山へは国道三三号線が結び、支線としては六本の県道と村道成河・藤社線、簑川線などがある。
 自動車交通量は国道では、御三戸地点で昭和三七年に四二六台、昭和四六年には二,三三七台、何れも一二時間交通量となっている。その後も自家用車は増加の傾向にあり、現在はおびただしい交通量となっている。
 幹線である国道の整備に続いて主要県道の整備が進むに従って道路交通の発展をみたが、これは一つには国および国民経済の成長によって自動車の増加のみならず、あらゆる生活様式が都市化したことによるものである。
 御三戸~松山間も今日では僅か一時間五〇分で結べるようになるなど、都市と田舎が時間的に接近しできたため文化、或いは経済交流も容易になった。
 昭和四九年三月現在のバス運行状況をみると次のとおりである。
 国鉄バスの一日便数
松山~高知、急行便二六便      四八人乗り
松山~落出、快速及び普通便一八便  七八人乗り
松山~面河、途中快速便四便     七八人乗り
落出~二箆、普通便四便       六一人乗り
 伊予鉄バスの一日便数
松山・久万~面河四便、うち二便は土小屋まで、久万~水押、普通便二便
 このように、松山~御三戸間は一日に国鉄が四八便、伊予鉄が四便、両者合わせると五二便であり、実に二六往復のバス便が運行されている。従って、昔は松山へ行けば最低二日がかりであったが、今日では日帰りがらくにできるようになった。

村内の主な道路路線図

村内の主な道路路線図