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美川村二十年誌

一、これまでの土地調査

 現存する字限図、公簿面積の源は地租の制度確立のための土地の調査にはじまるが、豊臣秀吉が天正一〇年(一五八二)に全国の検地(測量)を行なわせ土地台帳をつくったことが広く知られている。このときは、六尺三寸四方を一歩(一坪)とし、三六〇坪を一反としている。ついで江戸幕府のもとで幕府・諸藩がしばしば検地を行なったが、これは六尺一分四方を一歩とし、三〇〇歩を一反に改めている。愛媛県においては、明治八年八月二七日、愛媛県権令岩村高俊の発した乾第一二一号の達書によって、改租事業着手が宣言され、この時の基準は六尺(一・八㍍)を一間、一間四方を一歩としている。当時の測量の技術は未熟で、今日の国土調査法に基づく地籍調査事業における測量の精度とは比べものにならないけれども間尺、間繩を使って一筆限り野取図をつくり、これを連合して一耕地限地図、一村限地図をつくって、この三種の図を地引帳と共に、県庁租税課に提出させ、検査官吏が現地に臨んで地主及び村総代人立会で一筆毎の畝杭と照合して異同を調べ、ある時は図について訂正させられた。この時の測量の事業に要する経費はすべて農民の負担としている。測量法に熟していない農民が不完全な器具によって実施するため困難を極め、完全に事業が終了したのが明治一四年であった。実に大事業であり、戸長はじめ村吏の精力的活躍がしのばれる。