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美川村二十年誌

第三節 青年教育

 敗戦後まもない二〇年暮から二一年の始めにかけて、食糧の不足と混乱の中で、青年自からの手により、仕七川・弘形・中津村で、それぞれ青年団が結成された。
 「祖国は敗れた、無残にも敗北した。だが我々はこの祖国の敗北を嘆き、或は往年の指導者達を恨むよりも、甦生した祖国の力でありたい。」(弘形青年団報・発刊の言葉より)このように青年団は、新しい日本建設と民主主義の確立を指標にスポーツ活動・演芸・文集の発行を中心に積極的に参加し、語り合い論じあって、青年団活動を盛り上げていった。
 三〇年三月美川村が発足し、青年団も合併の気運が高まり、旧村最終団長等が合併について協議検討の結果、諸事項が円満に解決されて「美川村青年団」が誕生した。
 昭和三〇年から三二年は、「話し合おう、団結しよう、実践しよう」を合言葉に青年団研修大会・青年団・婦人会協議会などを開催し、時間励行の問題・青年男女の交際など、身近かな生活上の問題から話し合いを進め、〝明るい村づくり〟に協力しようとの活動が力強くなされた。
 三三年から三四年にかけては、勤労青少年教育の組織的な場である青年学級が、全村八ヵ所に開設され、勤労青年にとって、この上もない研修の場であると喜ばれた。「待望久しかった青年学級の誕生に私たち若者は、感激に高なる胸をいっぱいにふくらませて喜び合っています。(中略)学級生一人一人が自己を確立するためにこの所に集まり、お互に励まし合って真剣に学習を始めます。」ある学級の開級式における答辞の一部である。このように青年は張り切って学習に励んだ。さらにこの年は、青年が中心となり有線放送設置運動を起こし、村内数ヵ所に設置することができた。これは青年が地域住民に密着した問題にとりくみ
をみせた点で重視すべきことであろう。
 三五年から三七年、貿易の自由化・安保条約などの対外的な問題もさることながら、農山村における。〝農業の行きづまり〟が叫ばれ、農村人口の地すべり的な流出が始まり、農山村の前途に大きな不安をいだかせた時期であった。そういった情勢下にあって、青年団員の減少も顕著となり、活動面に大きな障害となった。そこで青年は、より仲間意識を高め明るく希望にみちた団活動を展開するために〝美川青年団歌〟を作り、さらに青年団のシンボルである団旗・団員バッチを制作し、心機一転、全員一致協力で住みよい村づくりを目標に意欲を燃やした。このことは県下でも数少ない特異な事例であろう。
 三八年から四一年、高度な経済成長のひずみは、いろいろな形で現われて農村青年のほとんどが、農業の将来に希望を失ない、その対策が叫ばれ、あやぶまれた時期である。四〇年五月八日、〝美川村農業後継青年クラブ〟が会員二五名をもって誕生した。この会は主として農業に従事する青年の自主的なグループで、農業後継者としての自覚のもとに会員相互の連携をはかり、近代的な高度経営の確立と将来は農業を専業として生計を保ち、安定した生活が営まれる農業経営を目ざして、各部門別に水稲・たばこ・養蚕・林業等を研究、とくに玉ねぎの育苗・夏の早出し大根を借上地でつくり県外に市場を求めて、自らが流通機構を研究するなど地についた活動を進めた。この日常の活動に対し知事表彰も受けている。このクラブも昭和四八年度現在で会員一〇名に減少している。しかし会員は、〝量より質で〟と毎月一回の定例会を開催し、現在おかれている立場を研究し、青年として問題の多い中で農業でいかに生きてゆくかを研究している。
 いっぽう、三二年ごろからくすぶりはじめていた青年団の上部組織の問題について、美川村青年団も愛媛県連合青年団(県連青)との目的不一致を痛感し、三八年三月単独で県運青を脱退し、以米、中立の立場をとってきたが、今後さらに青年団活動を発展させるには、広い視野に立ち高い立場から活動を各方面に伸ばすことが大事であると四一年七月三一日、愛媛県青年団連合会(愛青連)へ加盟を決議し、一〇年近く、もめにもめた問題に終止符が打たれた。
 こうした組織問題、団員の減少のなやみなどをかかえながらも、とくに停滞いちじるしい女子部の活動に勇気と希望と魅力を与えるため、積極的に女子研修会活動にとりくみ、身近かで家庭で役立つものをと、着物の着付け方や生花講習会を開催して女子団員とのつながりを深めていった。
 また若者の減少は、三三年より開設している地域青年学級の運営にも大きな影響を与え、グループ活動等を困難にしていった。このような状態から脱皮するため広域青年学級を開設して地域学級で出来難い学習計画を実施しては、という強い意見が出され中央青年学級の開設に至った。このことは急激に発展する社会に遅れることなく、村の有為な形成者となるため学習を進めなければならない、とする青年の自主的な学習意欲の盛り上がりがあったことは見落せない。
 四二年から四五年にかけて組織の強化、地域に密着した活動を柱に、広報活動とくに文集、「美青ニュース」などを発行し、団員意識の高揚と組織強化に努めると共に〝青年山の家〟建設について、各種関係機関への陳情などを行なって、その推進に力を入れた。この山の家は実現こそしなかったが、この活動は青年団員の連帯性を強めることに大いに役立った。またこの時期で見落せないのは、美川村青年団独自で「交通安全宣言」を行ない、〝三ない運動〟の徹底を中心に、交通安全思想の地域社会への呼びかけや、自分たちで作ったガリ版印刷のパンフレットを配布するなど地域に目をそそいだ活動がなされた。この活動に対しては、県知事表彰、また上浮穴交通安全協会からも表彰された。
 四六年から四八年、急激な経済の成長は、過疎問題・公害・社会連帯感のうすれなど、さまざまな問題を残した。団員も三六年は二七四名、四五年には一一〇名、四八年には五九名と一〇年間に四分の一以下に減少し団活動も思うにまかせない悩みをもちながらも、村に残る青年は私生活にとじこもることなく積極的な参加で内容を充実し自己を高め、村に役立とうと交通安全の推進はもちろんのこと、社会奉仕活動、伝統文化を守りかつ作りだすために文化祭を開催するなど、住民とつながりのある活動を力強く進めた。
 なお、この年に開催された愛媛県青年文化際の郷土芸能発表において、美川村青年団は獅子舞を上演、みごと努力賞に輝いた。この賞は単に演技のみでなく地みちな日頃の青年団活動が認められたものである。
 現在美川村青年団は、仕七川・美川西・美川南・黒藤川・二箆の五分団で構成され団員数は男子三七名・女子二二名、計五九名である。

美川村青年団長

美川村青年団長