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美川村二十年誌

第六節 社会体育

 我が国のスポーツは、昭和二四年の国際復帰が認められたのを始めとし、東京オリンピックの決定・スポーツ振興法の制定・東京オリンピックの開催という段階を経て発達してきたといわれる。こうした全国的な流れの中で、美川村における社会体育も次のような段階を経て、今日に至ったのである。
 昭和三二年頃までは青年のスポーツ活動はなされていたが、学校体育が主で一般住民にとってはほど遠いものであった。三二年にスポーツの振興をはかろうと県教育委員会の委嘱による体育指導委員が設置され、ごく一部の愛好者によるものではあるが、野球クラブも組織されるなど徐々に広がりを見せはじめた。
 三四年に東京オリンピックが決定し、全国的にスポーツ熱が盛んになった。こうして、翌三五年、村内の各職場の親睦とスポーツの振興を目的に第一回職域ソフトボール大会が開催され、村内各職場より一〇チームが参加し、熱戦がくりひろげられた。二回目からは村在住の全職員が三〇円づつ出し合って優勝旗を作製し、大会を盛り上げるなどして今日に至っている。これが美川村における社会人を対象とする大会の最初のものである。
 三六年にスポーツ振興法が制定されるに至り三七年四月、体育指導委員を教育委員会の組織の中へ位置づけた。当初四名を委嘱したが、その後地域の要請・スポーツ活動の進展などにより、現在七名に増員しスポーツの底辺拡大に努力している。
 三七年一〇月、第一回村民体育祭が開催されたのを機に村内における社会体育も年々充実され、四五年にはバレーボール大会を開催、モンペ姿のお母さんや、ねじり鉢巻のお父さんが参加するようになった。
 三九年、待望の東京オリンピックが開催された。遠くギリシャからリレーされて来た聖火は、九月一四日一二時一三分梨ノ下の中継点に到着、各中継点にまのあたり聖火を見ようとつめかけた人並みの中をオレンヂ色の炎は次々とリレーされた。また村の中心御三戸では、アーチ万国旗と、仕七川中学校生徒によるブラスバンドで歓迎ムードは一段と盛り上げられ、美川村区同一四㌔を本村から選出された五六名の選手もそろって完走し、その大任を果たした。
 三五年から開発の進められていた美川スキー場も、四〇年にリフトを設置して四国随一と云われるようになった。「地元にスキークラブがなくては」という愛好者たちの声が高まり、四三年二月、正しいスキー技術を練磨し、体力と健全な精神のかん養を図ることを目的とし、県・全国組織に加盟する。〝美川スキークラブ〟が誕生した。現在、会長新谷優以下三七名の会員で毎年スキー教室・スキー講習会を開催している。
 四七年には、過疎で悩む村民の楽しみと健康な体力づくりを目的として、初めての卓球大会を開催、この大会には、村内から一九チームの参加があり、個人戦に七〇数名が参加し、延一一〇余名の選手によって、熱戦につぐ熱戦がくりひろげられ、予想以上の盛大な大会となった。
 このような各種大会行事のほか、各地域公民館の体育祭・青年スポーツ祭などが実施され、村民のスポーツに参加する機会が多くなってきたことは喜ばしい現象である。しかし、いっぽう過疎と生活の郡市化の問題などから、その必要性が認められながらも一部の人々に固定化する傾向があり、村民が自主的に体育レクリエーションに親しむまでには至っていない。

美川村体育指導委員

美川村体育指導委員