データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

美川村二十年誌

第二節 国民健康保険

 職域の健康保険が進む中で医療制度の最後の防波堤の役割をもつ旧国民健康保険法が昭和一三年に公布されたが、県下でこの制度の実施にふみきったのは三ヵ町村であった。
 美川村でも合併前は、それぞれの旧村で国民健康保険事業を推し進めていたが、当時の国民健康保険特別会計は、その財源を保険税と一般会計よりの繰り入れを主体にまかなわれていたので、財政的な面また個人負担が多いといったことからその運営が困難となり、国民健康保険事業は休廃止のやむなきにいたり、県下でも実施町村は半減していたのである。
 昭和三〇年の合併時には旧中津村(大字黒藤川・沢渡)だけが旧村からの引継ぎ事業として、新村の中に中津村国保運営協議会を設置し事業を開始したが、村の一部分のみの事業ではいけないということからその後、美川村国保運営協議会が設置され、全村一斉に国民健康保険事業が再開されたが、全世帯を加入させるまでにはいたらなかった。また三〇年・三一年には一部負担金(個人負担分)の後払い制度を採用して実施にふみきったが、村民に対する国民健康保険事業の説得等が不充分であったためか多額の保険税の滞納、一部負担金の未納を生む結果となった。そのため国保事業特別会計は別表に示すように赤字寸前の決算となり、加えて事務的にも繁雑になるということから全面的な医療機関の協力を得られないまま実施したため、本事業の運営面からも大きな支障をきたしていた。三二年、郡医師会の協力を得て一部負担金の立替払いを中止し、本人窓口払とすると共にその整理には五年余りの年月を要している。
 当初は国庫補助金も少ないため、村・被保険者の負担も多かったが三三年ころから国庫補助金の補助率も年々改正され、補助金も逐次増加し、三三年には保険税と国庫補助金の歳入に占める割合が共に四二%となり、村繰入金が一四%であったものが四〇年には保険税は歳入合計の二五%、国庫補助金六六%村の繰入金三%と、昭和四七年には保険税一九%、国庫補助金六四%、村繰入金一%、その他一六%となり、三三年に比べて保険税は五・五倍の延びに対して国庫補助金は一四・七倍と補助金の占める割合が大きくなってきたのである。
 国民健康保険による診療費は他の社会保険に比べて、従来ずっとその給付内容が低かった。社会保険では世帯主に対しては医療費の全額を給付し、家族は五割給付(四八年一〇月から七割給付)で、他に傷病手当金等が支給されていたのである。これに対して国民健康保険では、当初は一律五割の給付であり、往診料や給食・看護料等が本人負担であったため、その医療費総額の七割から八割もの患者負担があった場合もあり、医療機関に行ってこの制度で給付を受けてもあまり恩典がないといったことから、村民から苦情が統出していたのである。その後、世帯主のみ七割給付、続いて四〇年一月から被保険者全員も七割給付になり、その給付内容については三四年から毎年のように改正され、充実されてきたのである。
 総医療のうち、村負担分が三〇年には五二七万三〇〇〇円であったものが三七年には一、〇〇〇万円の大台に、四七年には給付内容の充実と合わせて医療費の改定等で六、五三一万九〇〇〇円と大きくふくれてきている。また国・県が実施した老人医療の無料化、ねたきり老人・零才児の無料化とつづき、一人当りの医療費も延びてきた。それにひきかえ本村の被保険者は年々二五〇人から三〇〇人程度の減少で、一人当り保険税は上昇している。このようなことから、毎年制度の改正と合わせて保険条例も改正され、三〇年には、所得割が百分の〇・五であったものが、四八年には百分の五に、資産割百分の二が百分の六〇に、均等割九〇円が二、〇〇〇円に、平等割二〇〇円が三、〇〇〇円に上る結果となった。しかし当初は滞納の多かったこの保険税も三九年度から納税組合の協力で一〇年間完納されている。
 現在美川村では、「美川村国民健康保険条例」により施策を進めているが、運営については「国民健康保険運営協議会」を設置している。委員構成は次のとおりである。
 一、被保険者を代表する委員 三名
   岡林勇 後藤盈夫 土岐博隆
 二、国保保険医を代表する委員 三名
   佐藤浩 片岡賀女子 篠崎浩
 三、公益を代表する委員 三名
   天野登 田代清一 団上幸吉

国保特別会計決算状況

国保特別会計決算状況