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美川村二十年誌

第五節 母子保健

 母子健康センター設置以前は各校下別に妊婦検診を随時実施していたが、該当者の把握もむずかしく受検者も少数であり、連統的な指導や健康管理体制の確立に苦慮していた。
 四〇年に母子保健を推進するためにその中心的役割をもつ施設、すなわち母子健康センターの必要にせまられて建築することに決定した。上黒岩に敷地を造成、総工費五六五万五、〇〇〇円(県捕助金三四〇万円)をもって木造瓦葺平家建て、施設内容は五人が収容できる病室・分娩室・指導室・事務室、また三〇から四〇人程度の会合のできる講習室などを持つ郡内一の施設が完成した。
 四一年四月、美川村母子健康センター助産所として開所し、同年一一月から県児童福祉法による助産施設としての認定も受け、措置入所の取扱いもできる名実共に内容のある施設とし、佐藤浩医師を嘱託医として迎えた。現在では、本村のみならず郡内各町村からも入所できる広域的な施設となっている。助産部門では、四一年助産婦に岡崎タケノ・菅カメコの二人を迎えて事業を開始した。四二年には村内外を合わせて一〇三人の入所者があり、助産婦も目のまわるような多忙な毎日であった。その後、若い層の村外流出などにより四四年には四六人、四七年には六五人と減少してきているが、その入所者のほとんどが措置入所であるという現実から見て、児童福祉施設として大きな役割を果たしていると言えよう。
 母子健康センターの設立により、保健指導部門でも毎月一回の妊婦検診・衛生教育などを行なうと共に、いつでも妊婦の健康相談に応ずる体制をととのえつつ四一年から、母子栄養強化対策事業としてミルクの支給を、四四年より貧血検査・ケトン尿検査等、その内容の充実をはかったことにより、しだいに衛生知識は普及し、表①のとおり受診状況については、当初には各妊婦が初・中・後期とまちまちであったが、しだいに妊婦初・中期に移行しつつあり、また分娩までの受診回数も増加して望ましい方向に向いている。また表②にみるように自宅分娩も三七年には四二%もあったものが、四七年には三%となり未熟児も順次減少してきている。
 その地域の健康状況を知るには乳児の死亡率を見れば判るといわれている。いろいろな事情で乳児死亡零に到達することは困難であるが、これが達成のため四二年乳児検診を実施した。しかし呼出し連絡しても二五・七%の乳児が来所せず、一人当りの受診回数も表③に示すとおり非常に少なく、受診した中でも発育順調と見られる者も半数に満たない状態である。未受検者の中には乳児の発育良好のため受診の必要を認めないと自己判断している母親がある半面、発育不良のため検診を受けることを恥ずかしいと考えて受診しない母親など、乳児の健康管理に対しての問題点があった。しかし開所以来五年を経過した四七年には、発育順調児が出生児の三分の二以上を占め、受診回数も表③に示すように一回も受けない者は皆無となり、三回、四回と受ける乳児が多くなってきた。
 職業・学歴・経済状態に関係なく育児に対する知識は普及し、進んで健康指導を受けるようになり、衛生教育・家庭訪問により知識の向上をはかり検診による育児の安心感など、母子健康センターの保健指導部門としての効果は上ってきている。
 四八年四月から県単事業として零歳児医療制度が開始され、満一歳までの乳幼児については医療費が無料となった。また四八年二月から乳児の健康審査制度が始められるなど、乳児の健康についてあらゆる面から保護施策が行なわれ始めている。

妊婦の状況・分娩までの受診回数・第何子か

妊婦の状況・分娩までの受診回数・第何子か


出生児の状況

出生児の状況


乳児の状況

乳児の状況