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美川村二十年誌

第一節 久万山について

 四国の地図を見ると東西に帯をしめたような四国山脈が高く連なっているが、その主峰石鎚山は高さが一、九八二㍍あって、それから西はだいたい支脈を西と南西の二つに分けて、しだいに低くなっていく。久万山と呼ばれる地域はその支脈の間に挾まれた複雑な高原地帯にあたる。
 久万山の東と南は高知県と境しており、石鎚山の南麓を流れ下る面河川は、久万山を流れる多くの支流を集めて水量を増し、深い谷をつくって東に向い仁淀川と名をかえて、高知県に流れ去って行く。
 藩政時代にはこの久万山は、土佐国へ出るにもまた北の松山城下に出るにも七〇〇㍍から一、〇〇〇㍍以上の峠を越えねばならぬ不便な地であった。この山ふところに抱かれて久万山六千石といわれた松山藩の南部二四の村々が眠っていた。もっとも久万山と呼ぶ場合は大洲藩領となっていた下野尻・露峰・二名・父野川の四村も含めなくてはならないので、これ全く大名の石高の計算上の都合からむりに切り離されていたわけであった。久万山は村と村との連絡がまた不便をきわめる。峡谷に沿うたせまい道や、高峻な峠を越えて、ようやく隣村に達するのであった。どの村も高度五〇〇㍍以上、水田はごく少く、どの村も山畑に大豆・とうきび、或は換金作物として茶・楮をつくり、また紙すきをして細々と暮していた。この山里は新暦一一月にはいると小雪がちらつきはじめ、一二月から三月までは雪に埋れてしまう。来る日も来る日も白皚々の大雪が降りつもり、さては猛吹雪がたけり狂う。いろりを囲んで明け暮れる長い長い久万山の冬である。
 この「くま」という地名については、いろいろの説がある。まず、
 1、アイヌ語の「くま」で「横山」という意味。大普はアイヌが日本全土に住んでいたといわれる。
 2、「隈」である。この字には、彎曲して入り込んだ所、奥まってかくれた所、かたすみ、へんぴ、などの意味がある。
 3、「こま」という語からくまとなったもの。こまは河間、麓、麓から峰につづく稜線、といった意味がある。
 4、弘法大師伝説の「おくま」というばあさんの名前からはじまった。久万町のおくの方一帯だから久万山というのだ。
 5、動物の「熊」がすんでいたから、「くまのすむ山」の意味。
 6、九州の熊襲族が、ここに移住したのでいう。
 といった類である。アイヌ語の「横山」でも説明がつかないし、「隈」もこのあたりの地形をよく表わしているようだが、この地方では「隈」をそんな意味には使わない。外部の人が地名をつけたというのもおかしい。「こま」にしても同様で、やはりその地方に住んでいる人がつけた地名でなくてはなるまい。弘法大師のも伝説にすぎないし、九州の熊襲なども疑わしい。動物の熊は大正の初年ごろまでこの地方の山中にすみ、最近には山つづきの中山町に現われたことも知られている。「熊」とは強い動物で、昔の人にはほこりとする名ではなかったか。古い文書にこの地方のことを
  浮穴郡荏原郷熊ノ庄
 などと書いてあるのを見ると、この熊の名からつけられた地名のようにも思える。
 久万という文字がはじめて古書に見えるのは、鎌倉時代の「吾妻鏡」で、この本の元久二年(一二〇五)の所に、伊予国の家人久万太郎大夫高盛、寺町五郎大夫信忠らの名が出ている。久万、寺町などは住んでいた地名を苗字としたものだろう。また室町時代の永享四年(一四三二)には明正という者から大野弥治郎に土地を譲った文書に、「大旧のうち本郷、久万のこと、ゆずり奉る也」書いてある。大田とは今の小田地方の事である。